横手城は、その昔朝倉城といい、鎌倉以来威名を遠近にとどろかせ、仙北三郡を領有していた地頭頭の小野寺氏の居城であった。
13代小野寺輝道のとき、戦国大名として発展し、最上氏や戸沢氏、秋田氏らと激しい勢力抗争を繰り返した。
城は輝道・義道の代に整備され、天文23年(1554)頃に築かれた平山城であった。朝倉山を包むように横手川が流れ、背後は山また山と奥羽山脈につづく独立した一箇の要害であった。
城の普請は、石畳を用いないで土居削崖とし、土崩れを防ぐ土止めと、敵が這い登ることができないように韮を植えた築城であったので韮城の名があり、また詩人は衝城とも称していた。あとで俗に横手城といわれるようになった。
城主小野寺義道は関ケ原の合戦後、徳川氏に石田方とみられ、慶長6年(1601)所領没収、石見国へ流された。
翌7年、水戸から秋田へ左遷された佐竹義宣は、久保田城を本拠として築き、朝倉城を支城として築城替えをし、城代(伊達盛重)をおいた。以後、須田氏、戸村氏と城代が続き、戸村氏の時に城下町も整備された>
朝倉城下に家臣を配置するために屋敷町を割り、町内をつくり攻守に備え、横手川を外濠とした。
城の両翼、南の曲輪(現城南町)、北の曲輪(現北小学校付近)は敵を防ぎ、戦機を見て攻撃に転ずる城の重要な場所であった。
幕末には勤王方についた秋田藩の拠点となって、奥羽越列藩同盟軍と戦いを繰り広げたが、慶応4年(1868)戊辰の役には、仙台庄内の軍勢が朝倉城に迫り防戦したが、砲火によって城は炎上し、明治元年8月11日の夕暮れ、ついに本丸、二の丸とも落城し、城士21名は壮烈な討死をとげた。
入口が判りにくいのですが、つづらおりの七曲がりの坂を登ると大手門跡から天守が見えます。
展望室(天守最上階)からみる横手盆地や遠くの真っ白に光る鳥海山の眺めは最高です。
上の橋を渡り、武家屋敷跡を散策してみるのも良いですよ。羽黒町の「片野家」のお屋敷は玄関も立派で屋敷の廻りの塀も50メートル四方以上あり立派です。家老クラスの階級だったのでしょうか?
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