三戸城(別名・留ヶ崎城)

―― 南部氏発祥の城、三戸盆地に切り立つ丘上の城 ――

郷土館前からの三戸城温故館
郷土館前からの三戸城温故館
 
三戸城温故館
三戸城温故館
 甲斐源氏・南部三郎光行が文治5年(1189)、源頼朝による平泉藤原氏討伐の際の功により陸奥国糠部郡(ぬかのぶのこおり:現在の青森県三戸・上北・下北・岩手県二戸・九戸の各郡にわたる地域)、いわゆる南部領を与えられ、建久2年(1191)12月、三戸に入部したと伝えられています。
 それより永い間本三戸城(聖寿寺館、現岩手県三戸郡南部町)は南部氏の本拠とされていました。

 南部領は三日月が丸くなるまで歩き続けてもその領地がまだ広がっていると謳われたほど広大な領地でした。また、ここは名馬の産地で、軍馬の育成も盛んでした。
 南部光行は、牧場経営の便宜上、領地を九つの戸に分け、東西南北に四つの門に分散して配置しました。これは「四門九ヶ戸」の制度と呼ばれ、三戸の名前の起源と言われています。  三戸町は、当時、その中心として栄えた城下町です。

復興した三戸城綱御門
復興した三戸城綱御門
 
 天文8年(1539)に謀反を企てた家臣に放火され、本三戸城が焼失したため、永禄年間(1558〜69)に24代南部晴政がやや南西の丘陵竜ヶ崎に新たに当三戸城を築き居城としました。

復興した三戸城綱御門
復興した三戸城綱御門
 
 三戸城は、三戸盆地のほぼ中央、標高130メートル、北を熊原川と馬渕川との合流点に位置し、南は湿地に囲まれた要害の地にある山城であった。東西に長い丘上を削平し、淡路丸という郭を造成し、城郭内の入口は東の搦手口の鍛冶屋御門の一ヶ所のみであった。

三戸城の縄張り図へ(77kB)


 丘上の郭内に藩庁、御殿、倉庫、屋敷、三層櫓などがあった。これらの建造物が整ったのは26代南部信直のときの天正19年(1591)頃ともいわれ、山麓には城下町も形成された。

   最近綱御門が再建され、また、城門二棟が三戸町内の法泉時、竜川寺の山門として現存している。

南西方面(重臣屋敷跡)からの三戸城
南西方面(重臣屋敷跡)からの
三戸城
 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原北条氏征伐に際し、26代南部信直は1千の兵をひきい出陣、津軽三郡を大浦(のちに津軽と改姓)為信に奪われることにはなりましたが、南部内七郡(糠部・岩手・柴波・稗貫・和賀・閉伊・鹿角)を安堵され、近世の大名としての地位を確立しました。

桜満開の下馬御門跡付近からの城入口
桜満開の下馬御門跡付近からの城入口
 
 天正19年(1591)同族の九戸政美の乱が平定されると、三戸が南部藩領内の北辺に寄りすぎていることもあり、本拠を南方の岩手郡不来方に移すことになった。寛永10年(1633)に28代南部重直が不来方城(盛岡)を居城と定め、それより三戸城は三戸御古城と称されるようになったが、貞享年間(1684〜88)には廃城となった。

 昭和42年(1967)になって近世天守閣様式の温故館という三層四階の歴史資料館が造られ、藩主関係の資料、歴史資料などが展示されている。
 城跡には南部藩祖光行を祭る糠部神社、庭園などがあり、その他の文化施設、桜、梅、楓などの植物も多く行楽地としても親しまれています。

 駅からまじかに見える小高い山の近くをぐるっと歩くこと約40分、やっと桜が満開の城入口です。
 山上は意外と広く、重臣の屋敷跡標柱がたくさんありました。
 何故にか、その中に鹿園がありましたが・・・。


  三戸城温故館、三戸町立歴史民俗資料館                    平成12年5月1日時点  
◇交通 ・JR三戸駅から、南部バス三戸営業所行病院前、公園前下車、徒歩15分
・JR三戸駅から、タクシー約10分
・JR三戸駅から、徒歩約40分+約15分
◇開館時間 9時〜16時
◇休館日・月曜日、祝日の翌日、停電日
・12月1日から翌年3月末日まで
◇入館料一般:200円、大学生:150円、高校生:100円、小中学生:50円
◇お問合せ 青森県三戸郡三戸町梅内 城山公園内
  三戸町立歴史民俗資料館
      TEL:0179-22-2739

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