二本松城(別名・霞ヶ城)
―― 南北朝時代からの名城、二本松の少年隊の秘話を残す城 ――
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4代目畠山満泰のとき、応永20年(1413)、山麓の居館からさらに山上にも城郭を築き、畠山性から二本松氏を名乗った。 12代目二本松義継のときの天正12年(1584)伊達氏と争い、伊達輝宗を謀殺し、義継もまた伊達政宗に殺された。 翌年、義継の子義満は正宗に攻められ、二本松氏は滅亡した。 城は伊達氏の支城になったが、天正18年(1590)小田原征伐ののち豊臣秀吉は会津に蒲生氏郷を封じ、二本松城は蒲生氏の支城となった。 そののち、松下重綱が五万石、加藤明利が三万石で入封したが、寛永20年(1645)丹羽光重が白河より十万七千石で二本松に入ると幕府の許可を得て正保3年(1646)から築城工事を起し、中世的な城を近世大名の居城として大改築した。
二本松城は、近世大名の守城とはいいながら防備性のよい名城であった。 丹羽光重は、奥州街道に標高354メートル、山麓大手門からの高さは63間半(約114メートル)の山上に本丸を石垣で積み上げ、三層の天守を構え、山麓に郭を造り城下町を整えた。 本丸は正しい矩形ではないが、東西20間、南北29間、小規模な単郭であるが、四方は4間ほどの打込みはぎの石垣をめぐらしている。 山上の本丸と山下の大手門とは、一筋の8町40間(約950メートル)の道で連絡し、その両側には北側に六つ、南側に五つの重臣たちの屋敷があった。この正面の道の中ほどから南へ折れる道があって、これが本丸の尾のまわりをまわり、また正面の道に平行して東西に通じる南側と北側との道に連絡していた。
以後、丹羽氏は世襲して明治に至った。
現在城址は、昭和57年(1982)に箕輪門と付け櫓が復元され、見事な庭園にいにしえの昔が偲ばれる。 山上に修復された真新しい天守台や本丸の石垣等があり、見晴らしも最高でした。 近いうちに天守閣の復元の話もあるそうです。 山麓の箕輪門から山上の本丸までの道には一気にあがるコースやゆっくりコースなどいろいろなあります。 (あまり整備されているとはいいがたいですが・・・) |
| 県立霞ヶ城自然公園 平成12年4月30日時点 | |
| ◇交通 | ・JR二本松駅から、北約2km弱、徒歩約20分 ・JR二本松駅から、タクシーで約5分、680円 |
| ◇お問合せ |
・二本松市産業部観光課 〒964-8601 福島県二本松市金色403-1 Tel:0243-23-1111(代) |
| 参考文献 |
・現地解説板、現地入手のパンフレット ・「日本名城の旅 下巻」 日本旅行作家協会編 (日地出版刊) |