二本松城(別名・霞ヶ城) 【 平成20年(2008)版 】

―― 南北朝時代からの名城、戊辰戦争では東軍の要衝となった城 ――

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本丸北角の天守台
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本丸北角の天守台
三の丸入口の箕輪門二重櫓
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三の丸入口の
箕輪門二重櫓
 二本松城は、室町時代中期の興国2年(1341)、足利幕府から奥州探題に任ぜられた畠山高国が下向し、この地塩沢の殿地岡に居館を構え、二本松と改称したことにはじまり、140年余り続きました。
 4代目畠山満泰のとき、応永20年(1413)、山麓の居館からさらに山上にも城郭を築き、畠山性から二本松氏を名乗った。
 12代目二本松義継のときの天正12年(1584)伊達氏と争い、伊達輝宗を謀殺し、義継もまた伊達政宗に殺された。
 翌年、義継の子義満は正宗に攻められ、二本松氏は滅亡した。

 二本松城は伊達氏の支城になったが、天正18年(1590)小田原征伐ののち豊臣秀吉は会津に蒲生氏郷を封じ、会津城主となった氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられました。

乙森跡からの本丸石垣群(手前が東櫓台)
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乙森跡からの本丸石垣群
(手前が東櫓台)
 その後、徳川時代初期も会津領として、松下重綱が五万石、加藤明利が三万石で入封したが、寛永20年(1645)丹羽光重が白河より十万七千石で二本松藩初代藩主で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として、220有余年続きました。
 丹羽光重は、幕府の許可を得て正保3年(1646)から築城工事を起し、中世的な城を近世大名の居城として大改築し、完成は、十年後の明暦元年(1655)ごろであった。
東西20間、南北29間の本丸跡平面図
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東西20間、南北29間の
本丸跡平面図

 丹羽光重は、奥州街道に標高354メートル、山麓大手門からの高さは63間半(約114メートル)の山上に本丸を石垣で積み上げ、三層の天守を構え、山麓に郭を造り城下町を整えた。

 本丸は正しい矩形ではないが、東西20間、南北29間、小規模な単郭であるが、四方は4間ほどの打込みはぎの石垣をめぐらしている。
 山上の本丸と山下の大手門とは、一筋の8町40間(約950メートル)の道で連絡し、その両側には北側に六つ、南側に五つの重臣たちの屋敷があった。
三の丸跡と庭園方面
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三の丸跡と庭園方面
 この正面の道の中ほどから南へ折れる道があって、これが本丸の尾のまわりをまわり、また正面の道に平行して東西に通じる南側と北側との道に連絡していた。
 この両方の道に、それぞれ新城館山、松森館山という砦がある。
 両方の道の両側にもそれぞれ十七、十一の侍屋敷がびっしりと道をはさんで存し、それによって両側からこの道を守ことができるようになっていた。

 ( 霞ヶ城(二本松城)公園 案内図(82kB)へ

本丸西方下の搦手門跡石垣
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本丸西方下の
搦手門跡石垣
 戊辰戦争のとき二本松藩は奥州同盟に加わり、官軍と戦った二本松少年隊の悲話が会津の白虎隊哀史とともに残っている。
 戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、慶応4年(1868)7月29日に落城しました。
 山上の本丸にあった天守も、明治5年(1872)に廃城となった。
自然石で築いた石組のとっくり井戸
  自然石で築いた石組の
とっくり井戸

 現在城址は、昭和57年(1982)に箕輪門と付け櫓が復元され、見事な庭園にいにしえの昔が偲ばれる。

 山上に修復された真新しい天守台や本丸の石垣等があり、見晴らしも最高でした。
 近いうちに天守閣の復元の話もあるそうです。
 山麓の箕輪門から山上の本丸までの道には一気にあがるコースやゆっくりコースなどいろいろあります。(あまり整備されているとはいいがたいですが・・・)

 反対側の見晴らし台から搦め手門跡経由や、車で本丸下の乙森跡まで上がってから本丸頂上を目指すのは楽すぎますか。

三の丸・箕輪門
 箕輪門は二本松城(霞ヶ城)の正面にあたり、江戸初期城主丹羽光重の建造である。
 城下箕輪村山中にあった樫の大木を主材としたのでこの名がある。
 聳え立つ石垣と累々たる城壁城門は十万石大名の威容を示していた。
 戊辰戦争によって灰燼と帰したが、再建の声高まり、年余の歳月と二億円の費えを投じて昭和57年8月に完成を見た。
 
三の丸入口の箕輪門二重櫓(南面)
クリックで拡大図(48kB)にいきます。 箕輪門二重櫓(正面)
クリックで拡大図(58kB)にいきます。 三の丸枡形前からの箕輪門二重櫓(内側)
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三の丸入口の
箕輪門二重櫓(南面)
箕輪門二重櫓(正面)
 
三の丸枡形前からの
箕輪門二重櫓(内側)
箕輪門二重櫓を見下ろす三の丸の櫓 三の丸上段の石垣
箕輪門二重櫓を見下ろす
三の丸の櫓
三の丸上段の石垣 (16kB)
 
箕輪門前からの三の丸枡形正面と石垣 三の丸枡形内部(正面)
箕輪門前からの三の丸枡形正面と石垣三の丸枡形内部(正面) (20kB)
三の丸内からの枡形内部の石垣
三の丸内からの枡形内部の石垣 (31kB)
駐車場からの三の丸石垣と塀(南面) 三の丸石垣と塀(南東端)
駐車場からの三の丸石垣と塀(南面)三の丸石垣と塀(南東端)

本丸石垣と天守台
 平成3年3月から5ヶ月にわたり実施した発掘調査で、はじめて本丸の形状と規模が判明しました。すでに崩壊し減失したと考えられていた石垣の、A面からE面までの長さ約80mにわたる遺構が検出されたからです。
 石垣の特徴的な積み方のひとつである慶長期の『穴太積み』や、元和・寛永期の各様式のほか、江戸時代後半期の様式が確認できました。
 これらの貴重な石垣を後世に残すため、各方面からの検討を重ね、平成5年8月から学術調とあわせ石垣の前面修築・復元工事に着手し、平成7年6月に完成しました。
 
枡形虎口右側の石垣(南東面) 枡形虎口と東櫓台(北東方面)
枡形虎口右側の石垣(南東面) 枡形虎口と東櫓台(北東方面) (15kB)
枡形虎口から上がった所からの東櫓台(東方面)
クリックで拡大図(62kB)にいきます。 東櫓台からの天守台と土塁(北西方面)
クリックで拡大図(66kB)にいきます。 天守台からの東櫓台と土塁(南東方面)
枡形虎口から上がった所からの
東櫓台(東方面)
東櫓台からの天守台と
土塁(北西方面)
天守台からの東櫓台と
土塁(南東方面)
西櫓台からの天守台と西面下の二段石垣
クリックで拡大図(77kB)にいきます。 西櫓台からの天守台と東櫓台への土塁(北東方面)
西櫓台からの天守台と
西面下の二段石垣
西櫓台からの天守台と東櫓台への土塁(北東方面) (13kB)
 
本丸跡からの西櫓台の石垣(西方面)
クリックで拡大図(79kB)にいきます。 東櫓台からの天守台と西櫓台間の土塁(西方面)
クリックで拡大図(61kB)にいきます。 天守台からの西櫓台間の土塁と石垣(西面)
本丸跡からの西櫓台の石垣
(西方面)
東櫓台からの天守台と
西櫓台間の土塁(西方面)
天守台からの西櫓台間の
土塁と石垣(西面)
東櫓台からの枡形虎口と本丸跡(南西方面)
クリックで拡大図(51kB)にいきます。 東櫓台下からの本丸跡(南西方面) 天守台からの枡形虎口と二本松市街(南東方面)
東櫓台からの枡形虎口と
本丸跡(南西方面)
東櫓台下からの本丸跡
(南西方面)
天守台からの枡形虎口と
二本松市街(南東方面)
本丸石垣修復完了と共に移設された霞ヶ城址碑
クリックで拡大図(96kB)にいきます。 搦手門跡から本丸への登り道(南西面) 天守台石垣下の本丸土塁(北方面)
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本丸石垣修復完了と共に
移設された霞ヶ城址碑
搦手門跡から本丸への登り道
(南西面)
天守台石垣下の
本丸土塁(北方面)

天守台下西面二段石垣
 この石垣は、以前から一部分が露出していました。平成6年11月、本丸石垣修築復元工事とあわせ発掘調査を実施したところ、全体の姿が確認できました。
 石垣は、斜面上に上・下の二段で構築され、上・下段ともに天端左側の一部分が欠落していました。築石は野面石(自然石)を主体とし、一部荒割石が用いられ、その積み方は古式の『穴太積み』と呼ばれる特徴的な石垣です。大小の石材をレンガをねかせるように横積みし、数石しか”横目地”の通らない、いわゆる「布積み崩し」の積み方です。
 
天守台下西面二段石垣 天守台下西面二段石垣
クリックで拡大図(96kB)にいきます。 天守台下西面二段石垣
天守台下西面の二段石垣

乙森跡
乙森跡からの本丸・東櫓台方面 乙森跡からの本丸石垣群(手前が東櫓台) 東櫓台からの乙森跡
乙森跡からの
本丸・東櫓台方面
乙森跡からの本丸石垣群
(手前が東櫓台)
東櫓台からの乙森跡
 

搦手門跡
 城の裏面にあたる門のことで、現在は石垣および門柱を建てた礎石を残すばかりです。
 この門は、二本松城始築時の慶長初期(1590)頃に建てられ、その後に何度か修築されたことが絵図等でわかります。
 一般的に、城は敵に対する正面(大手)の防備は堅固ですが、裏面(搦手)はそれに比べて弱いところから、この語の起源になっています。
 
搦手門正面への登り階段 搦手門跡の石垣(北西面)
搦手門正面への登り階段 搦手門跡の石垣(北西面)(21kB)
搦手門跡正面の通路と石垣(北東面)
クリックで拡大図(128kB)にいきます。 搦手門跡の石垣(内側の南西面)
クリックで拡大図(96kB)にいきます。 搦手門跡前からの本丸下帯曲輪
搦手門跡正面の通路と石垣
(北東面)
搦手門跡の石垣
(内側の南西面)
搦手門跡前からの
本丸下帯曲輪
搦手門跡正面からの新城舘跡・本丸への登り階段 搦手門跡正面から上がった新城舘跡への道と土塁
搦手門跡正面からの
新城舘跡・本丸への登り階段
搦手門跡正面から上がった新城舘跡への道と土塁 (23kB)
 

新城舘跡(西城)
 二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていや時期がありました。
 慶長6年(1601)〜寛永4年(1627)会津城主蒲生秀行。忠郷のときで、二城代がそれぞれ二本松城内の東城と西城に詰めていたと記録にあり、ここ「新城舘」はその西城にあたります。
 
新城舘跡正面に建つ二本松少年隊顕彰碑(本丸・北東方面) 本丸下からの新城舘跡上段(南西方面)
新城舘跡正面に建つ二本松少年隊顕彰碑 (21kB)
(本丸・北東方面)
本丸下からの新城舘跡上段
(南西方面)
新城舘跡下段の智恵子抄詩碑方面(南西方面) 新城舘跡真下の土井晩翠歌碑(見晴台そば)
新城舘跡下段の智恵子抄詩碑方面 (20kB)
(南西方面)
新城舘跡真下の土井晩翠歌碑
(見晴台そば)


 県立霞ヶ城自然公園                                平成20年4月30日時点  
◇所在地 ・福島県二本松市郭内3丁目
◇交通 ・JR東北本線・二本松駅より、北約2km弱、徒歩約20分
・JR二本松駅から、タクシーで約5分
・東北自動車道・二本松IC〜料金所を出てすぐの信号を左折、更に次の信号と
   若宮の信号を左折して、公園へ
◇駐車場 ・公園専用に三の丸前に大きな駐車場あり、
・見晴台下、自然休暇村管理センター下、乙森跡下(天守台真下)にも駐車場有
◇お問合せ 二本松市観光協会 〒964-8601 福島県二本松市金色403-1
      Tel:0243-55-5122

参考文献 ・現地解説板、現地入手のパンフレット
・「日本名城の旅 下巻」 日本旅行作家協会編 (日地出版刊)

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