二本松城(別名・霞ヶ城) 【 平成20年(2008)版 】
―― 南北朝時代からの名城、戊辰戦争では東軍の要衝となった城 ――
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4代目畠山満泰のとき、応永20年(1413)、山麓の居館からさらに山上にも城郭を築き、畠山性から二本松氏を名乗った。 12代目二本松義継のときの天正12年(1584)伊達氏と争い、伊達輝宗を謀殺し、義継もまた伊達政宗に殺された。 翌年、義継の子義満は正宗に攻められ、二本松氏は滅亡した。 二本松城は伊達氏の支城になったが、天正18年(1590)小田原征伐ののち豊臣秀吉は会津に蒲生氏郷を封じ、会津城主となった氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられました。
丹羽光重は、幕府の許可を得て正保3年(1646)から築城工事を起し、中世的な城を近世大名の居城として大改築し、完成は、十年後の明暦元年(1655)ごろであった。
丹羽光重は、奥州街道に標高354メートル、山麓大手門からの高さは63間半(約114メートル)の山上に本丸を石垣で積み上げ、三層の天守を構え、山麓に郭を造り城下町を整えた。 本丸は正しい矩形ではないが、東西20間、南北29間、小規模な単郭であるが、四方は4間ほどの打込みはぎの石垣をめぐらしている。 山上の本丸と山下の大手門とは、一筋の8町40間(約950メートル)の道で連絡し、その両側には北側に六つ、南側に五つの重臣たちの屋敷があった。
この両方の道に、それぞれ新城館山、松森館山という砦がある。 両方の道の両側にもそれぞれ十七、十一の侍屋敷がびっしりと道をはさんで存し、それによって両側からこの道を守ことができるようになっていた。
戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、慶応4年(1868)7月29日に落城しました。 山上の本丸にあった天守も、明治5年(1872)に廃城となった。
現在城址は、昭和57年(1982)に箕輪門と付け櫓が復元され、見事な庭園にいにしえの昔が偲ばれる。 山上に修復された真新しい天守台や本丸の石垣等があり、見晴らしも最高でした。 近いうちに天守閣の復元の話もあるそうです。 山麓の箕輪門から山上の本丸までの道には一気にあがるコースやゆっくりコースなどいろいろあります。(あまり整備されているとはいいがたいですが・・・) 反対側の見晴らし台から搦め手門跡経由や、車で本丸下の乙森跡まで上がってから本丸頂上を目指すのは楽すぎますか。 |
| 乙森跡 | ||
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| 乙森跡からの 本丸・東櫓台方面 | 乙森跡からの本丸石垣群 (手前が東櫓台) | 東櫓台からの乙森跡 |
| 新城舘跡(西城) | |
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二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていや時期がありました。 慶長6年(1601)〜寛永4年(1627)会津城主蒲生秀行。忠郷のときで、二城代がそれぞれ二本松城内の東城と西城に詰めていたと記録にあり、ここ「新城舘」はその西城にあたります。 | |
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| 新城舘跡正面に建つ二本松少年隊顕彰碑 (21kB) (本丸・北東方面) | 本丸下からの新城舘跡上段 (南西方面) |
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| 新城舘跡下段の智恵子抄詩碑方面 (20kB) (南西方面) | 新城舘跡真下の土井晩翠歌碑 (見晴台そば) |
| 県立霞ヶ城自然公園 平成20年4月30日時点 | |
| ◇所在地 | ・福島県二本松市郭内3丁目 |
| ◇交通 |
・JR東北本線・二本松駅より、北約2km弱、徒歩約20分 ・JR二本松駅から、タクシーで約5分 ・東北自動車道・二本松IC〜料金所を出てすぐの信号を左折、更に次の信号と 若宮の信号を左折して、公園へ |
| ◇駐車場 |
・公園専用に三の丸前に大きな駐車場あり、 ・見晴台下、自然休暇村管理センター下、乙森跡下(天守台真下)にも駐車場有 |
| ◇お問合せ |
・二本松市観光協会 〒964-8601 福島県二本松市金色403-1 Tel:0243-55-5122 |
| 参考文献 |
・現地解説板、現地入手のパンフレット ・「日本名城の旅 下巻」 日本旅行作家協会編 (日地出版刊) |