上山城(別名・月岡城) 【 平成12年(2000)版 】

―― 最上氏・伊達氏の決戦の地に立つ羽州の名城 ――
平成20年(2008)の 上山城へ
南西方面からみた上山城遠望
南西方面からみた上山城遠望
 
 
 上山地方は室町時代の初めには最上氏の支配する所であったが、米沢盆地の伊達氏の勢力が進出し、これに属する小簗川(こやながわ)貞範が山形盆地の南に位置する虚空蔵山に城を築き高楯城と称した。
南方面(駐車場)からの上山城
南方面(駐車場)からの上山城
 

 享祿元年(1528)武衛(武永)義忠が高楯城の小簗川氏を滅ぼし、城を奪い取って居城としたが、標高356メートルの山城なので高峻にすぎたので、天文4年(1535)に新たに少し離れた丘陵天神森(現在の月岡の地)に築いたのが、近世の上山城であるという。羽州街道と米沢街道の分岐点に近く、山形の最上氏と米沢の伊達氏が、しばしば衝突した地である。

 上山城は、米沢盆地、山形盆地の中央にある上山盆地のほぼ中央にある独立の丘に拠った平山城である。
 本丸を囲んで一段低く周囲に二の丸があり、外濠がこれを取巻いていた。山上の本丸も水濠で囲まれていた。石垣は少なく、おおむね土居と崖である。
 天守はなく、本丸の東側中央に比較的大きい三重櫓があり、二の丸からこれを通って本丸に登るようになっていた。この上り坂の両側には、狭間のある塀があった。本丸東南の隅に二重の隅櫓が一つあるのみで他に櫓はなかった。

北方面からの上山城
北方面からの上山城
 
 天正年間(1573〜1592)の城主は最上義光の叔母婿の武永満兼であったが、最上・伊達両勢力の間にあって、"両端"を持したため、義光に滅ぼされ、代わって最上氏の部将の里見民部が入った。
 その後城主は変わり、慶長8年(1603)からは坂光秀、元和2年(1616)には義光の五男・上山光広が城主であった。
 元和8年(1622)に最上氏が改易となり、代わって松平(能見)重忠が入封して、城を修築した。
 その後、寛永3年(1626)蒲生昌勝、寛永5年(1628)には土岐頼行が二万五千石で入封し、天守を築いた。
 元禄5年(1692)土岐氏が転封した後は、一時廃城となり、天守など城の建造物は取り壊されたが、金森頼時が飛騨・高山から三万八千石で入封し、二の丸に居館が設けられた。
 元禄10年(1697)松平(藤井)信通が三万石で入封すると城を復活した。松平藤井氏は以降世襲して明治に至った。
東方面(城入口)からの上山城
東方面(城入口)からの上山城
 

 上山藩ははじめから小藩であり、石高も二万石から四万石程度の大名が封ぜられたが、現在残る城跡は創築当時のものが維持され、藤井氏の代に整備されたものが明治に至った。
 建物は明治になって壊されてしまい、現在の上山城は、歴史・自然科学・産業の資料を展示する郷土博物館として昭和57年(1982)に秋に築城されたものである。なお、現在の五層の近世風天守閣は、旧城の建造物とは関係がなく、場所も城内ではあるが二の丸の南に建てられたものである。

  わが故郷の丸岡城のたたずまいにも似たお城でした。ただその違いはJR新幹線が停車し、温泉のある町であり、その賑やかさは羨ましいものです。
 4軒の武家屋敷も茅葺きのままに残されており、現在住んでいる人の屋敷維持の大変さがうかがえます。
 帰りには50円で入れる7軒ある公衆浴場の一つに入り、気持ち良くサッパリとして、つばさに乗りました。

 上山市立上山城郷土資料館                        平成12年5月2日時点  
◇交通 ・JRかみのやま駅から、徒歩7分
◇開館時間 ・9時〜16時45分
◇休館日・4月6日〜10日、 年末(12月29日〜31日)
◇料金・大人:400円、大・高校生:350円、中・小学生:50円
◇お問合せ ・〒999-3154 山形県上山市元城内3番7号
  (財)上山城管理公社
      Tel/Fax:023−673−3660
山形県上山市ホームページへ (※ 蔵王と城と茂吉のふるさと)

参考文献・現地解説板、現地入手のパンフレット
・日本旅行作家協会編・旅の本「日本名城の旅−下巻−」(日地出版)

 上山城(2008年版) へ  © 2000,2007,2008 kみむ