弘前城(別名・鷹岡城)
―― 秀麗岩木山を借景にした津軽氏の名城 ――
関東にも現存天守はないので東日本で唯一つの天守となる。 三重の小規模な天守ながら、南北に長く直線状に続く石垣の南端に建つ姿は、春は桜、夏は月、秋は楓、冬は雪と四季の妙なるたたずまいを見せる名城である。 弘前城は、はじめ鷹岡城と呼ばれていた。鷹岡に城を築くことにしたのは、津軽氏(はじめ大浦姓)初代の為信である。 天正年間(1573〜92)に津軽平野を平定を果たした為信は、それまでの居城であった大浦城、堀越城の二城が狭小なことから、慶長8年(1603)になって幕府の許可を得て、鷹岡を築地として選び、慶長9年から築城工事にかかった。 慶長12年為信が京都で亡くなると家督を継いだ三男で二代藩主となった信枚が工事を続行し、慶長16年(1611)にほぼ完成し、五月にこの新しい城に入ったと伝えられる。 その後、明治4年(1871)の廃藩置県まに至るまでの260年間、津軽氏代々の居城として、平和への十分な使命を果たし今日まで及んでいるものです。
弘前城は、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭からなる面積約49.2haの平山城で、築城から約400年を経た現在も、天守、櫓、城門、三重の水濠等の築城形態の全貌を遺す城跡として今日保存されているのは全国でも類例が少なく、極めて重要視されています。 藩政時代以来の建物が九棟、現存している。この内、天守だけが江戸時代後期の建物であるが、あとの八棟はすべて二代信枚が築城した時の建物である。 信枚は築城に当たって、堂々たる五層の天守を本丸の西南隅に築いた。 しかし、完成後の十六年目、寛永4年(1627)の九月十日に、壮烈な崩壊をとげた。 現在も本丸西南隅の石垣は、この上に天守が建っていたと言わんばかりに、西に張り出している。 藩主津軽信枚の「御日記」によれば、その日の夜、雨とともに激しい雷鳴がとどろき、天守の屋根の鯱に落雷して火がついた。まず五層目が燃え、ついで四層目に火がまわり、そこに釣ってあった時の鐘が真っ赤に焼けて三層目の弾薬庫の煙硝の上に落下した、瞬間、ごうぜんたる大爆発が起こり、雨の夜空に火柱が立ち上り、天守閣はまたたくまに焼け落ちたという。
この時、天守の屋根は、木で瓦の形をした下地をつくり、銅板を貼った銅瓦葺とされたが、築城当初に建てられ、現存する辰巳櫓など三棟の隅櫓の屋根は、いずれも栩葺と呼ばれる板葺であった。 栩葺は、長さ90センチほどの板を、20センチ前後の葺足で重ねて葺く方法である。 城の隅櫓の屋根が板葺では戦の時に火の心配があるが、雪が多く特に寒い地域では、通常の土瓦では冬凍って割れることが多いので、他の地域では、金沢城の鉛瓦、越前丸岡城の石瓦も同様の理由であろう。 弘前城は、弘前公園として明治28年(1895)に市民に開放されて以来、桜の名所として全国にその名を知られている。 | ||||||||
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念願の弘前城は予想に違わず現存の城のたたずまいでした。天守の中には急な階段や太くどっしりした柱があり、濠あり、櫓あり、すばらしい名城です。 西濠の桜のトンネルへは、絶対に5月連休にアベックで来るのが最高です。一人旅のおじさんからのリポートでした。 前日までに電話で弘前市観光協会に申し込めば、弘前市内及び周辺の案内を弘前観光ボランティアの方が、無料でガイドして頂けますよ。 | ||||||||
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| 弘前城 平成12年5月1日時点 | |
| ◇交通 | ・JR弘前駅から、徒歩約25分(北西約2km) ・JR弘前駅から、バス駒越経由藤代営業所行き 市役所前下車、徒歩2分で 追手門へ ・JR弘前駅から、バス浜の町経由藤代営業所行き 文化センター前下車、徒歩2分で 東門へ |
| ◇有料期間 | 4月1日〜11月23日 〔無料〕4月〜11月の毎月第2日曜日 |
| ◇有料時間 | 9時〜17時(入館は16時30分まで) |
| ◇入園料 | 単独券(弘前城) 大人:300円、小人:100円 共通券(弘前城・弘前城植物園) 大人500円、小人160円 |
| ◇お問合せ | ・弘前市商工観光部公園緑地課 弘前市上白銀町1 TEL:0172-33-8739 ・財団法人弘前市公園緑地協会のホームページへ ・弘前市立観光館 弘前市下白銀町2-1 TEL:0172-37-5501 ・社団法人弘前観光コンベンション協会のホームページへ ・弘前市観光案内所 (JR弘前駅) TEL:0172-26-3600 |