向羽黒山(むかいはぐろやま)城跡
ここから上がっていく白鳳三山(観音山・羽黒山・岩崎山)の主に岩崎山の全域と羽黒山の一部に広がっています。 城跡ではありますが、大坂城のように天守閣や大きな堀を構えた城ではなく、武士の館のような城です。 各種の古文献によると、葦名盛氏は家督を息子の盛興に譲り、隠居の城として向羽黒山城を築城したと記されています。 そして、天正3年(1575)盛興が亡くなったため盛氏は再び黒川城に戻り、向羽黒山城は廃城になったとされています。 しかし、その後会津を支配した伊達氏や蒲生氏、上杉氏の時代にも城として機能していた可能性は十分に考えられ、城の設備がかなり厳重で、何らかの手を加えられているようです。
また、向羽黒山城は規模・質ともに東北地方でも屈指の城跡であり、保存状態も良いことから今後の発掘調査の実施により、東北の山城の特質や築城技術の特徴を解明するための有力な資料をなるといっても過言ではありません。 会津盆地南部の阿賀野川が裾野を洗う向羽黒山にあり、葦名氏の詰の城として築かれ、標高408.8mの山頂からは、会津を一望におさめることができます。 その重要性は、その後会津を支配した蒲生、上杉氏も改修を加え、城は山頂から北側の山腹にかけておびただしい数の曲輪を配置し、要所に空堀や虎口を築いている。 |
| 三の丸 | ||
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三の丸は、永禄4年(1561)おもに馬の訓練場として造られたところで西北見張りもよく望楼や指揮陣屋など並設されていた。 盛氏の兵力養成の広場でもあって、着々完備に意を尽くしたが、天正3年(1575)7月嫡男盛興の早逝に遇い、再び黒川城(鶴ヶ城)に移ることになり、その計画も中断せざる得なかった。 この地にたたずめば苔むした石垣が幽かに散見され、当時の駿馬のいななきが聞こえるようである。 | ||
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| 道路沿いに4段程度に階段状の三の丸(東側) (23kB) | ||
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| 三の丸跡標識 | 三の丸跡下部方面 | 三の丸跡の中腹部(西方面) |
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| 上部から見下ろす三の丸跡広場 (21kB) | ||
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| 三の丸最高部の広場 | 道路からの三の丸最高部 (南面) | 道路からの三の丸の土塁 (北方面) |
| 北曲輪 |
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| 三の曲輪、二の曲輪の北側の道路下にある北曲輪を望む (23kB) |
| 弁天曲輪 | |
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| 弁天曲輪内から三の曲輪から 二の曲輪への道路を望む | 弁天曲輪内の展望台から 北東会津若松方面を望む |
| 二の曲輪(二の丸) | |
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二の曲輪に入るには、虎口と呼ばれる部分に門がありました。 坂道部分には、石積石垣があります。 南側は、堀切と土塁で囲まれています。 二の曲輪は実質的には近世の本丸(城主の居所)にあたる所と考えられ、一の曲輪の険峻さに比べ、曲輪取りも広く、展望性に富んでいて、生活に必要な飲料水を確保している水の手曲輪も近くにあり、生活機能が重視されている。 この平場上から礎石も発見されているので、それを用いた建造物などが存在したとも考えられる。 大川の清流を眼下に、眺望絶佳のこの曲輪は四百余年前の盛氏の大きな夢を今に伝えている。 | |
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| 南側の虎口を上がった入口からの二の丸(北方面) (36kB) | |
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| 桜が咲き、整備された二の丸(北西部) (34kB) | |
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| 堀底道としても使われた 一の曲輪・二の郭間の巨大な堀切 | 三の曲輪側に開かれた二の曲輪の虎口 (18kB) |
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| 向羽黒山城跡 平成20年4月29日時点 | |
| ◇所在地 | ・福島県大沼郡会津美里町字船場 |
| ◇交通 |
・JR只見線会津本郷駅から、向羽黒山城跡入り口前の会津本郷焼資料館&会津美里町 インフォメーションセンタまで、徒歩約20分(約1.5km)、そこから山道を約2kmで一の曲輪下へ ・磐越自動車道・会津若松IC〜国道121号線〜国道49号線〜国道118号線〜県道128号線を南下し、 会津美里町町インフォメーションセンタ前の細い道を左折、山道を直進 |
| ◇駐車場 | ・一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪近くに駐車スペースあり |
| ◇問い合わせ |
・会津美里町インフォメーションセンタ TEL:0242-56-4637 福島県会津若松市大町一丁目7番地3 |
| 参考文献 | 現地解説板、現地入手のパンフレット |