徳島城(別名・渭山、渭津城)

―― 中国渭水の景勝に似るという阿波国主・蜂須賀氏の川城 ――

徳島城:下乗橋(小見付橋)と月見櫓跡
ダブルクリックで拡大図(61kB)へ 徳島城:鷲の門(復元)
ダブルクリックで拡大図(53kB)へ  徳島城は、JR徳島線徳島駅のすぐ東北側徒歩十分足らずのところにあり、中心の城山は標高62m、山上に本丸跡、東に東二の丸、西に西二の丸、西三の丸などの郭跡が残っている。
 東山麓には表御殿、奥御殿があったが、現在は徳島公園となり、表御殿庭園と御殿風建造物の徳島城博物館がある。西山麓にあった西之丸屋敷はグランド、学校などになっている。

 徳島城のあるところは鎌倉時代、富田荘といい、伊予の地頭河野氏の支配地であった。至徳2年(1385)になって足利尊氏とその子義詮に仕えた武将、細川頼之が四国地方を収めたとき、吉野川の河口に近い支流、助任川と新町川の間の中洲上の小山に城を築いた。
徳島城:最大規模であった太鼓櫓跡の石垣 徳島城:本丸への石垣  当時この辺りは河川の水流がことのほか美しく、その風景は伝えられる中国の名勝、渭水のようであったところから渭山城あるいは渭水城と呼んだという。
 そののち城主は変ったが、永禄年間(1558〜69)には細川氏の臣森飛騨守高次が居城していた。

 天正10年(1582)土佐に勢力を持った長宗我部元親が阿波攻略の兵を進め、渭山城を落とし、阿波占領後は吉田孫左衛門康俊が城番をして在城していた。
 天正13年(1585)になって豊臣秀吉が四国征伐を行う、その際にめざましい活躍をした蜂須賀正勝、家政親子に、その戦功として阿波国十八万六千石を与えた。
 正勝は隠居し、阿波に入った家政は、はじめ阿波一宮城を居城としたが、あまりの高峻な山城だったので、秀吉の許しを得て、一国経営により有利な渭津を城地と定め新しく城として、本丸のある山城と御殿の立ち並ぶ山麓の平城とで構成される城を築城した。
徳島城:堀川にかかる数寄屋橋と石垣 徳島城:本丸広場
 蜂須賀家政の築城工事は入国した天正13年にはじまって翌14年に完成したというが、これは城山上の本丸、二の丸、三の丸辺りの工事で、さらに城郭と城下町の構築は続けられた。やがて城郭は北は吉野川、南は園瀬川を外郭とするほどの大規模な城下町となった。

 また、周囲を流れる大小の河川を堀として巧妙に利用し、物資等の輸送にも便宜をはかり、海上を眺望できる東二の丸には天守を築いて敵襲に備えていた。御殿のそばを流れる寺島川沿いには珍しい折れ曲がり塀が巡らされていたが、他の建物と共に明治8年(1875)にはほとんど破却された。城跡は、明治38年日露戦役の勝利を記念して徳島公園となり、一般に公開されている。

徳島城:博物館前 徳島城表御殿庭園石橋(俗称地団駄橋)
ダブルクリックで拡大図(63kB)へ  徳島城は城山の城地、東麓の表御殿庭をよく残しているが、平成4年(1992)、表御殿外郭の鷲之門が復元された。現在も残って整備された表御殿庭園は、回遊泉水と枯山水の兼用された造りである。枯山水の庭に有名な踏割橋という大石の橋があり中ほどが割れている。

 城山山頂部には累々と草に覆われた石垣群が残っており、特に本丸虎口の高石垣が立派です。また本丸は広く、登る敵を屠り、守るに最高だと思いました。

 早朝のどしゃ降りの雨の中の徳島城となりましたが、朝早いせいか、無料で表御苑庭園を散策できました。(それとも単に庭園への鍵の閉め忘れで、開いていただけだったのかな?) 

  徳島城博物館、表御殿庭園 (徳島公園)                       平成15年8月14日時点  
◇交通 ・JR四国徳島駅より城之内橋を渡って、徒歩10分
・徳島市営バス「徳島公園鷲の門前」下車徒歩約5分
◇開館時間 ・午前9時30分〜午後5時(入館時間は午後4時30分まで)
◇入館料 ・一般        300円
・高校生・大学生 200円
・中学生以下    無料
   ※ 表御殿庭園のみは、
         大人(12歳以上):50円、小人(6歳〜11歳):30円
◇休園日 ・月曜日(祝日の場合は開館)
・祝日の翌日(日曜・祝日の場合は開館)
・年末年始(12月28日〜1月4日)
◇問い合わせ ・徳島市立徳島城博物館    TEL 088-656-2525
  ボランティア友の会のメンバーが博物館と表御殿庭園を案内します。
  (1)ガイド対象/事前(入館1週間前まで)に予約した団体・学校等。
     (但し都合により希望日にできないこともあります)
  (2)ガイド料/無料
  (3)予約・問い合わせ/上記のとおり

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