大洲城跡はJR予讃線伊予大洲駅から南に2kmほどのところ、肱川に面する城山本丸の郭と台所櫓、高覧櫓の二基が山上に残り、山麓川岸に薄ネ櫓、三の丸、旧藩主加藤邸に三の丸南隅櫓がある。また、大洲市内には町並みに藩政時代の面影を残すところもある。
大洲城のはじまりは、鎌倉時代末期の元徳2年(1330)伊予国守護に任ぜられた宇都宮豊房が下野国から伊予喜多郡に移り、翌元徳3年(元弘元年(1331))地蔵ヶ嶽に築城したことによるといわれる。またこの地蔵ヶ嶽城は文治元年(1185)河野通信が居城していた比志城が前身ともいわれる。
宇都宮氏は八代約230年居城したが豊綱のとき大野直之に城を奪われた。
そののち城主は小早川隆景、河野通直、戸田勝隆と替った。
文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和島城主となると支城として大改築を行い近世的な城になった。
慶長14年(1609)脇坂安治が入封し、それまで大津と呼ばれていた町を大洲と改名した。
元和3年(1617)になって先の大坂の陣の戦功によって加藤貞泰が六万石で大洲に入封すると以降世襲して明治維新に至った。
城は、肱川に面した標高23mの小山地蔵ヶ嶽山頂に本丸を置き、中腹に腰郭、西南山麓に二の丸、その外側に内堀があり、南に三の丸、その外側に侍屋敷、町屋があった。
本丸中央川岸寄りに江戸時代末期再建された四層の天守と連結された台所櫓、高欄櫓がある。
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