高知城(別名・大高坂城)
―― 本丸建物が遺る山内氏の城 ――
高知城は南北朝の頃、この地方の豪族大高坂山松王丸が居城し、北朝方と戦ったが、落城しそののちは廃城になっていた。松王丸の城は砦ほどのものであったという。現在の高知城は、「駿馬と妻の十両」で知られる山内一豊によって築かれたものである。 室町時代、土佐岡豊を本拠として勢力を伸ばした長宗我部氏は、一時は四国4ヶ国を治めるほどであったが、天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国征伐で長宗我部元親は秀吉に破れ、戦後土佐一国を安堵された。 天正14年、九州征伐の軍に元親も加わり、九州に出征したが帰国後、大高坂山の地に築き岡豊城からここに移った。しかし当時大高坂山は城下を河川の流れるものが多く、度々の洪水に逢って居城三年にして浦戸城を築きここに移った。
慶長五年(1600)関ヶ原合戦で西軍に属した宗我部盛親は、戦後領地没収され、翌年替わって山内一豊が、遠州(静岡県)掛川から、一躍土佐(高知県)一国二十万石の太守に抜擢され、長宗我部盛親の居城だった浦戸城に入城した。しかし、浦戸は城地が海辺に片寄ってたので、近く地形を案じた一豊は、慶長六年(1601)に古くは国府の所在地で、廃城となっていた北方の大高坂山に新しく築城を開始した。 築城の工事は本丸の造成とともに河川の治水工事から始まった。鏡川、江の口川はじめ多くの川の水流を変える工事は大工事であったが、大高坂山の本丸にはさらに盛り土をしてその高さを42mまで上げた。着工二年後の慶長8年、本丸など主要部分が完成し山内一豊が入城し、大高坂山を改め河中山とした。
慶長十年、一豊が世を去ったのちも二代目の忠義の時代に工事は続き、同十六年三の丸が竣工、起工以来十年にして全城郭が完成した。かくて、高知城は、名実ともに南海随一の名城としてその雄姿を誇った。 しかし、八代豊敷の享保12年(1727)城下をひとなめにした大火のため追手門を残しほとんどを焼失してしまった。 八代目山内豊数は享保14年から再建に着手し、宝暦三年(1753)完了した。現在残る天守はこのときのものである。 城は、はじめ河内(こうち)山城と称したが、慶長十五年、二代藩主忠義のときに高智山城と改名、これを略して高知城となったのは後のことである。
高知城天守は、外観は四層とも五層とも見えるが内部は六階、白亜だが搭載型の変形で最上層に望楼風高欄がついている。この天守には珍しく御殿が付属していて懐徳館と呼ばれているが、正殿上段の間、溜の門、納戸、玄関があり、大名の生活を偲ばせる。本丸には天守、正殿の他、東多聞、廊下門、詰門、西多聞、黒鉄門などの建物が残り城郭建造物の様式を見せる。 明治維新後、公園化のため多くの建造物が撤去されたが、本丸及び追手門等十五棟が残され、城跡と共に創建当時のの形がほぼ完全な状態で残っている全国でも有数の名城である。天守・本丸御殿・廊下橋・櫓門・多聞櫓などが標高四十四メートルの山上に立ち並び、当時の姿を伝える。
なかでも天守は延享四年(1747)に再建されたもので、創建時の形をほぼ忠実に再現しているが、その規模は旧城には及ばず、今更ながら藩祖一豊の雄図がしのばれる。この天守には天守台がなく、本丸内から直接一階に入るのが特徴である。 本丸と二の丸それぞれに独立性をもたせ、その間を廊下橋で結んでいる。 どちらかで最後まで攻防できる構造をもつ完成度の高い近世城郭であった。 |
初訪時は、夕方近くにたどりついたので、お城そのものは外観だけしか見れず、残念でしたが、30年後の再訪時はたっぷり堪能しました。一二三段に築かれた曲輪群と現存天守、そして建ち並ぶ城門・多聞櫓などが残りすばらしいです。さすが現存城郭です。 ただ、本丸搦め手の黒鉄門を登り口の石垣が崩れ通れなかったのが残念でした。(私は下までは行ってみましたが) |
| 高知県懐徳館(高知城天守閣) (大高坂城) 平成15年8月12日時点 | |
| ◇交通 |
JR高知駅より徒歩約20分、車約5分、 市バス・路面電車で高知城前下車、徒歩5分 |
| ◇開館時間 | 午前9時〜午後5時まで(入館は4時30分まで) ※ お盆の期間中は、午前8時〜午後6時まで(入館は5時30分まで)延長される場合があります。 |
| ◇休館日 | 12月26日〜翌1月1日 |
| ◇入館料 | 350円(18歳以上) |
| ◇問い合わせ |
・高知城管理事務所 TEL 088-872-5701 ・高知城懐徳館 TEL 088-872-2776 |