伊予松山城(別名・金亀城) 【 昭和48年(1973)、昭和62年(1987)版 】
―― 城郭建築史上、最末期の天守 ――
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1973.3.27
本丸井戸方面からの天守曲輪 
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本丸井戸方面からの天守曲輪
太鼓櫓付近から天守曲輪を望む
太鼓櫓付近から
天守曲輪を望む

 慶長五年(1600)関ヶ原合戦で戦功のあった加藤嘉明は、松山平野のほぼ中心に位置する勝山に築城することを徳川家康より許された。

 翌年より工事を始め、標高百三十二メートルの山頂部分に本丸を置き、山麓に二の丸、北側に北の郭、東側に東の郭を設けた。

 本丸の全長は三百メートルにも及び、地形をうまく利用して櫓・門を配置し、壮大な石垣を築いて防御を固めている。
 また五層の天守も建造されている。

 本丸と二の丸の標高差は九十メートルあるが、この間にも山の稜線沿いに渡塀・石垣が構築されている。

北隅櫓と十間廊下を望む
北隅櫓と十間廊下を望む
 
 
 嘉明の会津転封後は、寛永四年(1627)に蒲生忠知が城主となり、二の丸等の整備を行った。

松山城閣観覧券
松山城閣観覧券
 寛永十二年、蒲生氏に次いで松平定行が桑名より封ぜられた。
 定行は寛永十六年に幕府の許可を得て天守の改築にとりかかり、五層であったものを三層に変えた。

 しかし天明四年(1784)元旦に落雷にあい、天守をはじめそのまわりの建物すべてが焼失した。

 その後、藩の財政上の理由などによりなかなか再建されず、十二代藩主定穀(のちの勝善)の代の嘉永五年(1852)にようやく天守等の建物が再建された。
天守から見た天守曲輪
天守から見た天守曲輪
 したがって松山城天守は城郭建築史における最末期の建造物である。

 現在も天守は存在し、戦災などで焼失した本丸一帯の小天守。太鼓櫓などの建物も復元され、本丸上の建造物は藩政時代の様相を再現している。

1987.4.6
小天守下にて
小天守下にて
二の丸から望むの桜の中の天守
二の丸から望むの桜の中の天守

 十数年ぶりで、春の桜の季節に訪れた松山城でした。 昔はゴンドラで登ったのに、今回は歩いて登りました。桜の花びらの舞う中の甘酒は風情があって美味しかった。

 最初に訪れた時は、非常に高い山城のイメージも、2度目は、桜の花も満開で、優しく美しいお城でした。

 伊予松山城                                平成7年9月1日現在  
◇交通・JR松山駅より、市電又はバス一番待ち下車(所要約20分)徒歩5分
◇開館時間・午前9時〜午後5時まで
 ただし、12月・1月〜午後4時30分、8月〜午後5時30分
 (入城は各30分前まで)
◇休館日・12月29日
◇入場料・大人 350円、小人 120円

参考文献 ・現地解説板、現地入手のパンフレット
・《図説》日本の名城 (平井聖・小室榮一 編、河出書房新社 発行)

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