八代城(別名・松江、白鷺城)
―― 加藤清正の子忠広が築城した不知火湾を臨む五層六階の大天守 ――
今こそ変化しているが、昔の八代は不知火湾に臨み、芳醇な八代平野をひかえ、球磨川の河口に近いところにあった。それほど重要な地に元和5年(1619)に熊本城主の加藤忠広が築城した。元和5年といえば一国一城令が公布された後というのに、立派な城造りを幕府が許したのは、対島津の布石であった。 八代城の前身は、球磨川口にある麦島城で、関ヶ原の役のときまで宇土にいた小西行長の家臣が築いたところだが、元和5年に地震で倒壊した。 それを好機とばかり麦島に城代を置いた忠広が新城建設を幕府に願い出て、異例の城造りがはじまったのである。 さすがに島津氏に対する意図を汲んでか、堀を複雑に入り組ませ、石垣を高くする堅固な城であった。
本丸を中心に周辺に二の丸をめぐらし、本丸も二の丸も方形の郭だが、随所に折れひずみや出隅を多用し、本丸の東縁と北縁に大型の枡形虎口が設けられ二の丸、北の丸と接続されていた戦略的に発達した姿である。それに二の丸も大手郭、東の丸、北の丸の三郭ごとに分かれ、堀でもって画し、その北に出丸まで設けたという。 本丸北西隅に天守が築かれ、五層六階の大天守と二層三階の小天守が吃立していた。両者は西の塁線において並立し、渡り櫓で接合されていた。 しかし、寛文12年(1672)の落雷にあい、天守・櫓・長塀をはじめ多くの建造物が焼失、大天守自体は再び築かれることはなかった。 現在、天守台跡には、石塁の内壁がよく残り、地下一階の構造がよく理解できる。 加藤家廃絶後の後、小倉から移った細川忠利の父忠興が八代城を隠居城としたが、彼の死後は重臣長岡(後の松井)興長が三万石の城主として入城して以来、明治維新まで松井氏の居城として続いた。 表向きは細川家の城代だが、本家も幕府も一城の主として待遇していた。
いま、二の丸や出丸は堀を埋め立てられ、石垣を取り除かれ、市街地と接続してしまったが、本丸址の石垣と堀が昔の面影を残している。 八代市役所(旧八代高校跡碑が印象的でした)隣の八代宮前でバスを降りると、本丸の石垣と堀がしっかりと残っている八代城址が目の前です。八代城址の大小天守台や九間櫓跡がすばらしいです。 ところで、この城で不思議なことは石垣の端まで歩けて、東西南北の石垣の縁沿いに一周できることでしょうか。普通は危険なので、落下防止の柵を設けたり、立ち入り箇所で制限したりするところでしょうが、何もありません。 |
| 八代城 平成13年8月10日時点 | |
| ◇交通 |
・JR鹿児島本線 八代駅より産交営業所方面行きで約15分、 「八代宮前」で下車(\150)、目の前 |
| ◇お問い合わせ | ・八代市役所商政観光課 TEL:0965-33-4111 |