臼杵城(別名・丹生島、亀城)

―― 南蛮貿易港としても栄えた海城 ――

本丸東側にある搦手口(卯寅口)門脇櫓
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本丸とニノ丸の間に造られた空掘
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本丸と二ノ丸の間のつなぎの側壁 
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 北九州に勢力を張っていた大友氏は周防の大内氏と抗争していたが、この争いは大内氏と替わった毛利氏との間でも続いていた。
 永禄4年(1561)毛利元就の軍と門司で戦い破れ、さらには豊前の各地で破れた宗麟は、本拠地である府内(現大分市)を襲われる恐れが生じ、永禄5年(1562)府内の南の臼杵湾に浮かんでいた丹生島の頂を城地として選びここを居城として築城した。

 本丸とニノ丸の間に空堀を構え、この堀際に天守を築き、侵入する敵に横矢を掛けるようになっていた。天守は三層(四階という説もあり)で築かれ、周囲を多くの櫓で固めた。ただし、東の突端に位置する本丸は外損がひどいため、延宝3年(1675)の二ノ丸に居館が移された。

 現在、城の周囲は市街地になったため当時の面影をたどることは難しいが、臼杵城跡には、現在は埋められた丘に卯寅口門脇櫓、畳櫓、鐘楼があり、本丸と二ノ丸の間のつなぎの側壁は急崖で人を寄せつけなかったという。
 また、稲葉氏段階において臼杵川の中州に三ノ丸も整備された。

 永禄7年当時の大友宗麟の所領は百五十三万石余りであったという。しかしその子義統は文禄2年(1593)朝鮮の役の失敗で豊臣秀吉から除封された。

 臼杵城には、秀吉の家臣福原直高が五万石で入封、次いで慶長2年(1597)太田一吉が三万五千石、、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦ののち、五万石で稲葉貞通が美濃(岐阜県)の郡上八幡から移封されて以来、明治維新に至る十五代久通までのおおよそ270年間この地を統治した。

 臼杵城は三度戦火に遭っているが、天正14年(1586)薩摩(鹿児島)の島津軍が侵入したとき、宗麟はポルトガルから輸入した「国崩し」という大砲で応戦、落城をまぬがれた。ニノ丸にはポルトガルから贈られたという大砲「国崩し」のレプリカがあります。

( 臼杵城址復元鳥瞰図へ )

大手口より望む畳櫓、鐘楼
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本丸庭園
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ニノ丸との空掘そばにある本丸天守台石垣
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稲葉家下屋敷の門と式台のある玄関
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再建作業中の畳櫓方面からの大手櫓(H13.10.26完予定)
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 稲葉家は蝮(マムシ)といわれた斎藤道三に仕えた後、織田信長、豊臣秀吉といった時の権力者のもとで戦国時代を生き抜いた武人の家柄です。
 稲葉家下屋敷は、廃藩置県直後に居を移した旧藩主、稲葉氏の里帰りのための住居として、明治35年に建てられたものです。内部には杉や桧といった上質の資材が使用されており、式台のある玄関や書院造りの座敷、落ち着いた庭園など、お城の御殿を彷彿させる格式のある建築物です。

 また、下屋敷に隣接する旧平井家住宅は、江戸時代後期の建築様式をよくとどめた上級武家住宅です。天井裏から発見された棟札によって安政6年(1859)の建築であることが確認され、その文化財としての価値を損なわないよう、できるだけ旧材を使用するなど、修復作業には細心の注意が払われました。床刺の間(切腹の間)や、客用と家人用に区別された玄関が、当時のサムライの気風を感じさせます。

 臼杵城跡を見た後は、大手櫓?(H13.10.26再建完予定)を通って僅かに残った堀跡を見ながら、稲葉家下屋敷で、郷土料理”黄飯”を味わうことができるそうです。(ただし、駅でもらった案内によると、10名以上で2日前の要予約だそうですが!!)
JR臼杵駅には無料のレンタサイクル(20台)もあったそうですが、見過ごしました。
下屋敷に隣接する旧平井家住宅
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再建作業中のニノ丸からの大手櫓?(H13.10.26完予定)
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 臼杵城                               平成13年8月12日時点  
◇交通 ・JR日豊本線臼杵駅より徒歩10分
◇問い合わせ・臼杵市役所観光推進室
       TEL:0972-63-1111

 旧臼杵藩主 稲葉家下屋敷、旧平井家屋敷         平成13年8月12日時点  
◇交通 ・JR日豊本線臼杵駅より徒歩10分
◇観覧料 大人:320円
◇問い合わせ・稲葉家下屋敷
       TEL:0972-62-4416

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