明応年間(1492〜1501)の頃、島原の地にはこの地方の豪族、有馬氏の支城浜の城があった。当時有馬氏の本城は北有馬に日ノ江城、南有馬に原城の二城があった。
天正12年(1584)にはこの島原の龍造寺隆信が、島津、有馬の連合軍と戦ったとき連合軍の本拠を浜の城に置いた。
慶長19年(1614)有馬氏が日向に転封になると、幕府の直轄領となったが、元和2年(1616)大坂の陣(1614〜1615)の軍功で松倉重政が、大和五条から肥前島原四万三千石で入封した。
重政ははじめ日ノ江城に入ったが、元和4年(1618)に一国一城令の発令後にもかかわらず、江戸幕府の九州外様大名への牽制と対キリシタン政策から特別許可を得て、浜の城を新しく城地として選び、新城の建設に着手した。
城地は島原半島の東海岸寄りの雲仙岳のの裾野の森岳に広がる小高い丘で、工事開始から約七年の月日を費やして寛永2年(1625)に完成した
島原城は、本丸と二の丸は石垣を高く積んでまわりに水堀を巡らし、本丸と二の丸の間は廊下橋でつないでいる。
簡略な長方形の縄張りは柳川城と似ているが、規模・施設とも柳川城より大きく堅固である。
本丸の南寄りには五重の天守も建てられていた平山城である。
新城に移った重政は領内のキリシタンの取り締まりに努めたが、寛永7年に死没し、翌8年に家督を継いだ勝家は父以上にキリシタンを弾圧し、年貢の取り立てが過酷であったため、寛永14年(1637)に島原半島と肥後国天草島の農民が相呼応して一揆を起こし、島原の乱へと発展した。
キリシタンと百姓一揆は島原城を襲ったが、城は落城せず天草四郎を首領として廃城になっていた原城に立て籠った。一揆は一応翌年鎮圧された。
島原の乱は収まったが、勝家は責任を問われ切腹、所領を没収され、松倉家は断絶した。
その後城主は譜代の高力・松平(深溝)・戸田と替わったが、安永3年(1774)松平(深溝)忠恕が七万四千石で入封すると以降世襲して明治に至った。
この間、延宝2年(1674)の殿舎の焼失、安永6年(1777)の台風による三重櫓・平櫓の倒壊、特に寛政4年(1792)の眉山爆発による被害など、島原城も天災人災により数度にわたり損害を受けた。
寛永2年(1625)に以来の天守は、明治7年(1874)から同9年にかけて他の建物とともに破却されたが、昭和39年(1955)に層塔式の五層の天守閣外観復元された。他にも櫓二基が外観復元されている。
雲仙岳の裾野・森岳に築かれた緑と水と白亜五層の天守がすばらしいです。
二の丸にある島原文化会館側から細い通路を通って本丸へゆくのもよいですよ。
島原外港から島原城へは島原鉄道よりは、島鉄バスかJRバスで大手口下車の方が便利です。
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