島津氏は、平安末期に近衛家領島津荘下司職となった惟宗基言に始まる。
鎌倉・室町期には、日向・大隈・薩摩三国の守護となり、戦国末期には豊後・肥後を席巻し、九州統一を目指した。
城の創築年代ははっきりしていないが、関ヶ原の戦いで西軍に与しながらも、本領を安堵されたことからの徳川幕府への恭順姿勢か、薩摩藩初代藩主・島津家久は本丸と二の丸を並列するだけの簡単な縄張りの居館造りの城に留めた慶長7年(1602)頃といわれている。
また、薩摩藩では近世になっても藩士の城下集中を行わず、家臣は藩下各地に居住して麓(府本)とよばれる独特の郷士外城制をとっていた。この外城制により外敵を防ぐ態勢をとったため、本城を巨大化する必要がなかった。
鹿児島城は薩摩七十七万石という雄藩の居城としては規模はあまりに小さいが、背後の城山をとりこみ、有事の際は要害とし、本丸大手に櫓門を設け、塁状には多聞櫓・平櫓を備えただけのもので、天守のない屋形造りの城であったところに特徴がある。
麓の御殿は表向・内向・大奥の建物に分けられ、表向には御殿以外に能舞台が、内向には庭園や数奇屋風の書院が建てられていた。
元禄9年(1696)の火災で本丸の御殿は全焼。その後十年の年月をかけて御殿が再建された。
江戸時代末期の薩英戦争の際、砲弾が大奥に落ちるも大きな被害はなかったが、明治元年(1868)不審火により城は焼失した。
鹿児島城(鶴丸城跡)には、綺麗に積まれた石垣があり、堀には蓮の花が咲いてました。
時間もなく、鶴丸城跡の黎明館や城山公園、それと今回も磯庭園にいけなかったのが残念でした。
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