佐伯城(別名・鶴ヶ谷、鶴屋、鶴ヶ城)

―― 今も高峻な山上に残る石塁、豊後の要衝の城 ――

大手前方面からの三の丸櫓門
クリックで拡大図へ(77kb) 裏側からの三の丸櫓門
クリックで拡大図へ(76kb)  鎌倉時代豊後佐伯荘には豪族、佐伯氏がいて豊後守護大友氏に属していた。佐伯氏は番匠川の上流、標高224mの栂牟礼山山上に城を築きここを本拠とした。
 大永7年(1527)佐伯惟治のとき、大友義鑑から謀叛の企てありとして攻められ、佐伯本家は滅びた。そののち分家の佐伯氏が栂牟礼城主となった。
 佐伯惟定のとき豊臣秀吉の九州征伐に助力したが、文禄2年(1593)主家大友義統の失脚にともない佐伯氏も改易、城を去った。

 慶長6年(1601)毛利高政が二万石で佐伯に入ると、栂牟礼城が高峻な山城にすぎるのでほぼ4キロほど北の番匠川河口に近い八幡山の頂を城地に選び新しく城を築いた。八幡山は標高144m、現在の城山である。
 毛利氏の城は八幡山山頂を削平し、本丸、二の丸、西出丸、北出丸の四つで構成され、側壁を高石垣で固めていた。本丸のほぼ中心部に天守台を配置し、三層の天守を構えたといわれている。
 山城の二の丸、山麓の三の丸には櫓六基、城門八つがあった。
 しかし、天守は、江戸時代前期段階に落雷で焼失したとされる。
 後に城が荒廃した際、宝永6年(1709)に修築工事が手がけられたが、天守は幕府をはばかって再建されなかった。

本丸石垣と二の丸からの渡し橋
クリックで拡大図へ(79kb) 北ノ丸からの本丸石垣
クリックで拡大図へ(53kb)  早くから荒廃した山城部分に対して、南東山麓の三の丸は整備され、寛永14年(1637)には、居館が移されている。周囲を石垣で固め、馬場によって大手門と連結し、城下町とつながっていた。
 建物の大部分は明治になって壊されたが、武家屋敷と三の丸櫓門が残り、藩政時代を偲ばせる。

( 佐伯城(鶴屋城山城)鳥瞰図へ )


 佐伯藩祖、毛利高政は秀吉子飼いの武将であった。戦国乱世を秀吉と共に生き、ことに秀吉中国攻めの最中、織田信長の死を聞くと秀吉は高政を人質に出し、和議を計り、中国大返しにより明智光秀軍を破る。
 人質として残った高政を毛利輝元は、武骨ながら実直な人柄を愛で、毛利の姓を与え毛利高政(旧姓森)と改名、日田二万石の大名となる。
 関ヶ原の合戦を経て佐伯藩に移封、築城と町づくりを進め礎を固めた。秀吉子飼いの大名でありながら、綿々と引き継がれ明治維新まで存続できたのは佐伯藩だけである。

本丸からの二の丸
クリックで拡大図へ(75kb) 歴史と文学の道沿いの武家屋敷の門
クリックで拡大図へ(72kb)  JR佐伯駅から大手前までバスで行き、三の丸櫓門を見た後は、一気に登城の道を天守台まで約20分で駆け上がりましょう。汗も目一杯かいて、天守台からの佐伯市内を一望すると、気持ちよいですよ。
 それが苦手の方は、国木田独歩の道をゆっくりと上がるか、JR佐伯駅方面へ日本の道百選にも選ばれた『独歩も愛した散歩道』を歩いて行くのもよいでしょう。

 私が登城したのは早朝だったので(朝7時半ごろ)近所の人が散歩がてら(?)に上って、朝の会話をしていました。(汗を拭いている人もいましたね)

 佐伯城                               平成13年8月12日時点  
◇交通 ・JR日豊本線佐伯駅より徒歩20分で大手前へ
・JR日豊本線佐伯駅より大手前までバスで5分、徒歩すぐで、三の丸櫓門へ

   さらに山道を徒歩20分で本丸天守台へ
◇問い合わせ・佐伯市役所商工観光課
       TEL:0972-22-3111

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