佐賀城(別名・栄、亀甲、佐嘉城)

―― 沈み城の仕組みをもつ佐賀藩主の居城 ――

渡櫓門と付櫓からなる本丸表門の鯱の門 
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天守台からみた発掘調査中の本丸
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周囲に残る方形に近い大きな外堀の一部
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 佐賀城は、鍋島直茂が戦国大名竜造寺隆信の居城であった村中城を改修したものである。
 鍋島直茂は隆信の家臣であったが、隆信の戦死により当主となった政家が天正18年(1590)に隠退したとき、豊臣秀吉の信を得て事実上の佐賀藩の藩主となった。

 直茂が縄張りし、子勝茂が築城にあたった城は、佐賀平野の平坦低地の溝渠に囲まれており、城は全体の南東隅に位置する本丸や二ノ丸と北西に広がる三ノ丸、西ノ丸、武家屋敷郡によって構成され、それらの周囲を方形に近い大きな外堀をめぐらした典型的な平城である。
 緊急時には多布施川の水を取り入れ八田江・佐賀江の排水を止めることにより、天守・本丸の一部を除き、城下町ごと水没させる仕組みで、別称を沈み城ともいう。

 本丸の北縁に唯一の石垣がめぐり、この部分に高さは5mほどもある天守台と鯱の門のある食い違い虎口あが築かれた。天守台にはには南蛮風の五層の天守と、すぐ西側にはその渡櫓が設けられた。
 注目すべきは、本丸から天守台には上がれず、二ノ丸の西から本丸石塁北の犬走りを通って入るようになっている。佐賀城築城寺、鍋島勝茂は二ノ丸に住み、本丸を名目上の当主竜造寺氏に渡す予定であったという。

 その後、享保11年(1726)や天保6年(1835)の二度の大火で本丸や天守、二ノ丸まで焼かれ、天守や櫓はほったらかし、政庁や御殿の修築ぐらいであった。

 その後、幕末まで佐賀城は鍋島氏と友に存続したが、明治7年(1874)に征韓論に拘泥して下野した江藤新平が佐賀の乱を起こし、政府軍に鎮撫されたが、その時雨のようにに降り注ぐ砲弾のため、佐賀城は無残に破壊され、今では僅かに鯱の門とと書院、石垣、堀が残るにすぎない。鯱の門にも当時の凄惨な状況を物語る弾痕が無残に刻まれている。

 早朝の土砂降り雨の中、途中に残る堀やその城域の大きさを感じながら、約20分かけて佐賀城址へ。
 天守台に建つ『協和館』は明治時代の建物を、昭和32年に移築し、今でも市に申し込めばサークルなどで使えるそうですが、本来歴史的にはないものがあるのは、無粋ではと思うのは私だけでしょうか?
 天守台からみた本丸の部分は、発掘調査中でした。
天守台と天守台に建つ『協和館』
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鯱の門方面からの天守台入り口の石垣
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天守台方面からの鯱の門
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 佐賀城                        平成13年8月9日時点  
◇交通 ・JR長崎本線佐賀駅より市営バス24・25番線で「博物館前」下車徒歩5分 
・JR佐賀駅より徒歩20分
◇問い合わせ・佐賀市役所観光課
       TEL:0952-24-3151

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