飫肥城創築の歴史は定かではないが、康安2年(1362)飫肥城に反乱の徒が籠り、この地方の豪族土持頼宣がこれを討ったという。ただし、この当時の城といっても砦程度のものであったであろう。
建久元年(1190)源頼朝より日向国地頭職に任ぜられた工藤祐経が、富士の巻狩りで曽我兄弟の仇討ちで討たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入り、伊東氏と名乗り、日向の国主として支配権を持つようになった。
六代目の祐持のとき、足利尊氏よりさらに日向都於郡に三百町の領地を拝領し、八代氏祐がその地に都於郡城を築いた。
以降、十六代伊東三位入道義祐に及んでは、四十八の出城を各地に配し、伊東氏は都於郡城を本拠として日向に勢力を張った。
一方、薩摩の島津氏は、長禄2年(1458)伊東氏の南下に備え、日向に対する前衛として飫肥城を築き、志布志城の新納忠続を飫肥城に移した。
鎌倉・室町期と優勢であった島津氏に対し、伊東氏は天文、永禄期になって毎年のように飫肥城を攻め、伊東義祐が永禄11年(1568)に攻防八十年の末、伊東氏の手中に帰することになり、飫肥城には伊東義祐の次男祐兵が城主として入った。
しかし、天正5年(1577)になり、再度島津氏の攻撃を受け、飫肥城、都於郡城が落ち、伊東義祐らは豊後に逃れた。
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定に伴って戦功をたてた伊東祐兵が飫肥五万一千石に封じられ、江戸幕府からも所領を安堵され、幕末まで十四代にわたって飫肥藩を治めた。
その間、貞享元年(1684)に大地震に見舞われた後に復旧工事が行われ、近世城郭へと生まれ変わっている。
城跡には、昭和53年(1978)に飫肥杉を用いて大手櫓門を復元。枡形門の石垣は盛時のままで、切込みハギ石垣である。また、昭和54年に江戸時代の御殿を再現した松尾の丸などがある。
飫肥城内の江戸時代の御殿を復元した『松尾の丸』は素晴らしいです。本丸跡の方には観光客はあまりり行きませんが、城門や石垣などがしっかり残っています。
JR飫肥城に降り立ったなら、駅の売店のおばさんに声をかけ、レンタサイクル(3hr:300円)を借りなきゃソン。JR乗車証明書をもらって、それを渡せば資料館等の入館通行手形が割引になります。(510円が400円に)
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