延岡城は、高千穂に源を発した五箇瀬川と大瀬川に挟まれた高さ53m余りの延岡山の山丘に縄張りした平山城である。
最初にここに城が築かれたのは、遠く天平時代のことで、県(あがた)郡の庄司であった土持氏が居城である県城を築いたのはじまりといわれている。
治承元年(1177)居城が、県城から井上城へと移り、さらに西階城、松尾城と替わり、三百年近くは廃城となっていた。
土持氏は、日向国の豪族として栄えたが、天正6年(1578)松尾城を本拠としたとき大友宗麟に攻め滅ぼされた。
延岡地方は、ついでこの地に侵入した島津氏の所領となった。
その城が近世城郭として面目を一新したのは、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州討伐ののち高橋元種が五万石で封じられてからである。
元種ははじめ松尾城に入ったが、慶長6年(1601)から県城を大改築して延岡城の築城にかかり、同8年完工して、移り住んで居城とした。現在の延岡城である。
縄張りは、頂上部の本丸から西へ二の丸・三の丸と配置され、やや離れて西の丸があり、北側が大手であった。二の丸には高石垣が築かれ、三の丸からの侵入を阻んでいた。また、城山の麓にも水堀が築かれ、主要部を守っていた。
本丸には天守台はあったが、天守は建てられなかった。
本丸の下の腰曲輪に三層三階櫓が築かれ、事実上の天守に相当していた。
城下町の整備も整い、領内の発展に営々と力を尽くした元種であったが、慶長18年(1613)罪人を領内にかくまったということで、領地を没収され常陸に配流された。
慶長19年(1614)有馬直純が島原から入封し、城下町建設には非常に力を注いでいる。
延岡城は、明暦元年(1655)に天守閣や本丸の修復をして面目を一新したが、天和3年(1683)の火災で三層の天守閣は焼失し、再建されなかった。
以降城主は、三浦氏、牧野氏と替わり、延享4年(1747)内藤正樹が七万石で入封すると世襲し、明治に至った。県城は有馬氏のとき延岡城、内藤氏のとき亀井城と称した。
現在は、本丸郭跡、天守台、石塁などが残り、旧藩主関係資料などを展示した内藤記念館がある。
雨あとの夕陽さす人っ子一人居ない延岡城址でしたが、背景としては最高によかったです。
本丸ではH13.6からH13.9の予定で発掘作業が行われていて、一部石垣などが崩されていましたが、これも考古学、歴史、復元のためで、仕方がないですか。
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