中津城は古く、この地方の小豪族、中津氏の城があったといわれるが、それが後の中津城の地であったかどうかはさだかでない。
天正15年(1587)大友義鎮の救助の求めに従って九州島津氏の討伐を行った豊臣秀吉は戦後、豊前六郡12万石3千石を黒田如水孝高、長政親子に与えた。
入封した黒田如水は翌16年から山国川河口の扇状地に築城を開始した。
しかし、未完成のうちに子息長政が慶長5年(160)関ヶ原役の戦功により福岡52万石に転封となり、替わって同じ軍功から、豊前一国と豊後二郡を与えられて丹後田辺より入国した細川忠興が、未完成であった工事を引き継いだ。
忠興は方形であった縄張りを扇形に変え、新たに三の丸を増築し、大家川の本流を金谷堤防を築いてふさぎ、さらに山国川の流水を相原村から水道で城内に引き入れ、水量を増やして天然の堀とした。
満潮時には、内堀に瀬戸内海の水が流れ込むので、海城を称される。
現在五階建ての黒い板張りの天守が本丸の一隅に復元されているが、実は最初から天守を建てなかったらしい。
元和6年(1620)に忠興は隠居し、翌7年に小倉城に移り、新城の中津城にはその子忠利を入れた。
その後、寛永9年(1632)大坂役の後黒田長政(三斎)の長子忠利が熊本54万石に転封されると、小笠原長次が播磨龍野より中津8万石として入封、居城となりましたが、享保2年(1717)徳川譜代奥平昌成(10万石)が丹後宮津より入城、明治維新を迎えるまで155年間奥平家の居城でした。
明治3年(1870)中津藩主奥平昌邁は廃城を願い、旧藩士であった福沢諭吉の提言で、全国に先駆けて櫓、城門を破却し、西南戦争では西郷隆盛に呼応する中津隊の放火により御殿を焼失した。
現在の天守閣は、奥平家と中津市の協力のもとに薬研堀に面した本丸上段の東南隅櫓跡近くに昭和39年(1964)模擬天守として建てられたものです。
JR中津駅で『城下町中津の町並みを散策しよう』の案内図をゲットしていたにもかかわらず、道に迷ってしまい、中津川沿いのお堀に出てしまいました。
そこで、中津川方面から城井神社後ろの石垣をよじ登るという大胆な方法で、本丸に入りましたが、そこで、びっくり。城内に神社の多いこと。
福沢諭吉翁旧居には、時間もなくいけなかったのが残念でしたが、福沢旧居前から5〜10月の日祭日には、「キャラバンなかつ」の町づくりボランティアグループの方が交代で人力車を運行しているそうです。
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