熊本城(別名・銀杏城) 【 平成13年(2001)版 】

―― 豪壮華麗、堅牢無比、威容を誇る清正築城の名城 ――
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本丸長局跡方面からの外観復元の大・小天守 
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本丸長局跡方面からの
外観復元の大・小天守
加藤神社からの現存五階櫓の宇土櫓 
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加藤神社からの
現存五階櫓の宇土櫓
 近世熊本城の母体となった隈本城の名は、南北朝期の古文書にあらわれるが、城主と位置が明らかになるのは、文明年間(1469〜1487)に菊地氏の代官・井田秀信が茶臼山東端の千葉城に在城したという記録からである。
 現在の熊本城本丸のすぐ東の台地である。

 次いで明応5年(1496)、鹿子木親員が茶臼山南麓に新城を築城し、隈本城と称した。親員は豊後の大友氏に属したが、その死後鹿子木氏は菊地氏と結んだので天文19年(1550)大友宗麟の攻撃を受け、隈本城には城親冬が入った。

 その後豊臣秀吉の九州討伐ののち、天正15年(1587)佐々成政が肥後四十九万石の新領主として隈本城に入ったが、成政は治世の失敗により、一揆勃発で自刃。 肥後は二分され、北半分は加藤清正に、南半分は小西行長に与えられた。

備前堀を通して望む飯田丸五重櫓跡と大天守 
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備前堀を通して望む
飯田丸五重櫓跡と大天守

 
平御門前(東方面)からの坪井川沿いの長塀と土手 
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平御門前(東方面)からの
坪井川沿いの長塀と土手
 天正16年(1588)佐々成政に替わり肥後半国の領主として入封してきた清正は、成政時代の戦国の城を二十五万石の太守の居城として茶臼山男山に大規模な新城築城を計画し、文禄元年(1592)には城普請とともに侍町の整備も開始した。
 新城では北からの見晴らしを重視し、北から見て建物が重なりすぎないように検討を加えつつ工事が進められている。
 途中、工事の一時中断もあったが、慶長12年(1607)に完成をみた。

 城域は白川を外堀に見立て、坪井川を改修して井芹川と合流させて内堀とし、坪井川の北の丘陵地に位置し、東高西低の地形を利用し、本丸を最も高い東側に設け、順次西に下りながら、二の丸、藤崎八幡宮、新町へと続く。
 熊本城は平城だが、東側はアズキ谷と呼ばれる急峻な崖が防備を固めている。一方の西側は緩やかな坂が続き、家臣団の生活には便利だが、防備には不利であった。
月見櫓下の二重の石垣 
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月見櫓下の二重の石垣

数奇屋丸方面からの宇土櫓と渡り櫓(南面)
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数奇屋丸方面からの
宇土櫓と渡り櫓(南面)

 
 そこで本丸と出丸の間に水堀、さらに出丸と二の丸、二の丸と藤崎八幡宮の間には空堀をもうけるなど防衛策を凝らしている。
 城郭の広さは約98万平方メートル、周囲5.3km、本丸には大小二つの天守閣、武者返しと呼ばれる独特な曲線の石垣、宇土櫓をはじめとする四十九基の櫓、十八の櫓門、二十九の城門を持つ五十二万石の太守にふさわしい巨城、名城であった。
 特に石垣は清正の家中に石積みの巧者がいて、頑強な構造のうえに流麗な曲線を見せる特有な石塁を出現した。

 大天守は外観三層、内部は六階地下一階となっており、対面所としての機能も備えていた。小天守は大天守の西に二間ほどずれて建てられ、外観二層内部地下一階の建物であった。
 五基あった五階櫓のなかでも最大規模を誇った宇土櫓は、熊本城第三の天守といわれ、小西行長の居城であった宇土城の天守を解体して熊本城に運び建てたと伝えられる。

[ 熊本城内 案内図(平成13年版:50kB)へ ]
熊本大神宮方面から見上げた東十八間櫓 
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熊本大神宮方面から見上げた
東十八間櫓
空堀から見上げる北十八間櫓と高さ約20mの石垣 
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空堀から見上げる北十八間櫓と
高さ約20mの石垣

 清正の死後、忠広が跡を継ぐが改易となり、寛永9年(1632)豊前小倉城主細川忠利が肥後五十四万石に移封された。
 以後細川氏が十二代二百四十年間にわたって世襲して明治に至った。
 その間、天守・櫓の修理はあったが加藤氏時代の城を堅持した。

 明治4年(1871)鎮西鎮台がおかれ、城地構築物、建物は保たれたが、明治10年(1877)の西南戦争では、西郷隆盛率いる薩摩軍を相手に谷干城以下の官軍が50日余りの籠城戦を行い、その猛攻に耐え、その堅城ぶりを遺憾なく発揮したが、残念ながら開戦直前の失火で大天守・小天守・御殿大広間などの建物の大半を焼失し、宇土櫓など一部の櫓・門を残して偉容は失われた。
 昭和35年(1960)市民の浄財を集めて、大・小天守を復元しました。

熊本城登城ルートの頬当御門と復元工事中の西出丸 
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熊本城登城ルートの頬当御門と
復元工事中の西出丸
平成11年の台風19号で大きな損傷を受けた西大手門 
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平成11年の台風19号で
大きな損傷を受けた西大手門
 現在、築城400年にあたる平成19年(2007)を目指して、「復元募金」などの浄財により、本丸御殿や飯田丸五階櫓など熊本城への登城ルートの主要建造物の復元に取り組んでいます。

 第一段として平成12年より西出丸一帯の復元工事に着手、平成15年には、南大手門、戌亥櫓、未申櫓、元太鼓門、そして奉行丸の塀が完成します。

 さらに平成13年からは、城南側の高石垣に存在した飯田丸五階櫓と、平成11年の台風19号で大きな損傷を受けた西大手門の復元工事に着手し、平成15年からは本丸御殿大広間の復元にも着手予定だそうです。
 また、残りの一つの西出丸の北大手門も将来復元予定にあるそうです。


東竹之丸五重櫓跡方面からの飯田丸と飯田丸五重櫓跡 
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東竹之丸五重櫓跡方面からの
飯田丸と飯田丸五重櫓跡
本丸真下(北西方面)にある城内からの不開門 
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本丸真下(北西方面)にある
城内からの不開門
 約30年ぶりに再訪しましたが、宇土櫓はすばらしいです。これだけでも十分に天守に匹敵するといってもよいくらいです。

 熊本城復元募金の1口城主になり、りっぱな「城主証」が送られてきました。
 私の「名板」が掲げられる予定位置をしっかり確認して、次回の再訪(御殿復興の平成19年に確認予定)を誓ったのでした。

 赤い服着た制服のお姉さんに熊本城を案内してもらっているたった二人の観光客を見て、もうからないバスツアーかと思ったら、後で知ったのですが、熊本市のガイドさんで、頬当御門入口で申し込むと個人、小グループでも無料で熊本城を案内してくれるそうです。
 きれいな人だったのが、残念無念。
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 熊本城 (銀杏城)                                    平成13年8月10日時点  
◇交通・JR熊本駅または上熊本駅より市電で10分(150円)、熊本城前又は市役所前下車、徒歩5分
・JR熊本駅よりバスにて、交通センター下車、徒歩約10分
◇開館時間・4月〜10月:午前8時30分〜午後5時30分(閉門6:00)
・11月〜3月:午前8時30分〜午後4時30分(閉門5:00)
   ただし、毎年7月28日より8月20日ごろまで熊本城夜間開園があります。
   時間は、5時終了予定を2時間半延長!(延長料金はつきません)
   7時半まで城内にとどまることができます。
   しかし、延長時間の開園部分は天守周辺のみとなり、
   また、入退場は頬当御門のみとなりますのでご注意を・・・。
◇休園日・12月29日〜12月31日
◇入場料・大人(高校生以上):500円、小人(小・中学生): 200円 
◇問い合わせ ・熊本城総合事務所      TEL:096-352-5900
・熊本市観光情報センター  TEL:096-322-5060

参考文献 ・現地解説板、現地入手のパンフレット
・《図説》日本の名城 (平井聖・小室榮一 編、河出書房新社 発行)
・《旅の本》日本名城の旅 上巻 (日本旅行作家協会 編、日地出版 発行)

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