九州の玄関口に位置する小倉は、要衝の地として古くから城が築かれ、争奪戦が繰り返されてきた。
文永の頃(1264〜74)緒方惟重が最初に城を造ったという。また、一説には豪族、菊池武光が小倉城を築き、三男の武親が居城したともいわれている。
そののち城主は替わり、永禄13年(1570)には高橋鑑種が小倉城に居城した。
天正14年(1586)豊臣秀吉の九州征伐では、高橋元種が小倉城を開き秀吉に降って、小倉城には毛利勝信が田川八万石を与えられ入封したが、関ヶ原の合戦では西軍に属したため除封された。
関ヶ原の合戦後の論功行賞により豊前一国と豊後国の一部を得て丹後宮津より三十九万九千石で入封した細川忠興は、はじめ領内の中津城を居城としたが、後に関門海峡に面した交通の要衝・小倉城を本拠に選び、慶長7年(1602)より七年の歳月をかけ、小倉城の大規模な改修を行った。
城地は響灘に注ぐ紫川西岸の台地を利用して、本丸・松の丸・北の丸を築き、さらにこれを二の丸・三の丸で囲っている。水堀を多く設け、平城より海城の観を呈していました。
また、本丸の東側にあった天守閣は、外観四重で、内部五層六階で破風がなく、五層目が下の四層目より大きくて、黒塗りとし、当時は「唐塗り」と呼ばれて全国唯一の珍しいものでした。
細川氏が肥後熊本に遷ると、代わって十五万石で小笠原忠真が入り、以後代々譜代大名の小笠原氏の居城として九州探題の威容を誇りましたが、幕末の慶応2年(1866)豊長戦争の際、小笠原藩は自ら城に火を放って惜しくも建物のことごとく焼失しました。
現在の城は、昭和34年(1959)に記録に基づいて再建したものですが、かっての小倉城が破風などの装飾を一切持たない珍しい外観を有していたのに対して、大きな入母屋破風と唐破風をあしらったものとなっているのが原形と異なります。また最上階が下の階より張り出した「南蛮造り」と呼ばれる形式になっている点も異なります。
中は鉄骨、コンクリートのお城風展示館でした。
しかし、小倉城と並んで、神社やお寺、結婚式場が並んでいるのは、風景はチョットですね。
約5年ぶりの再訪ですが、JR小倉駅はきれいで賑やかになりましたね。モノレールも小倉駅からの発着になっているのにはびっくりでした。
初めて訪れた時(1996.11.17)は、九州(博多)出張の合間の雨天での訪問でしたが、平日のせいか、ゆっくりと館内を観ることが出来ました。お城の周りでは、未だ歴史(考古学)探求のための発掘作業が並行して行われており、学生時代のことを思い出し、竹へらを持ち出して、土削りをやりたい気分でした。
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