平戸島の平戸港は古来、大陸との交易港をして栄えてきた町で、戦国時代には南蛮貿易の拠点としてポルトガル船を迎え入れ、繁栄し、松浦党といわれた豪族の水軍基地でもあった。
松浦氏は源頼光の部将渡辺綱の孫、渡辺久が九州松浦に下り松浦氏を名乗り豪族となった。松浦四十八党といわれ、水軍が主力であった。
この地に初めて城が築かれたのは、豊臣秀吉の九州討伐に協力し戦後下松浦郡と壱岐を与えられた松浦家26代法印鎮信が朝鮮出兵から帰国した慶長4年(1599)亀岡に築いた「日之嶽城」(旧城)である。
しかし徳川家康は、豊臣秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしを向けた。鎮信はその疑いを払うため14年後「日之嶽城」を焼却、平戸六万一千七百石を守った。
松浦家は以来約90年間は城は再建されず、麓の「御館(おたち)」と呼ばれる屋敷で政務が続けられたが、30代松浦棟(たかし)となってようやく幕府から築城許可が出て、親交のあった兵学者山鹿素行の縄張により日之嶽城跡に元禄17年(1704)「平戸城」(新城)の再築を開始し、宝永4年(1707)に完成した。
この平戸城は、亀岡山という海に突き出た円い山を利用して築かれた平山城で、最高所に本丸、その南に二の丸、その西に三の丸を置いた。天守は建てられなかったが、東、西、北を囲む海を天然の堀として守りを固めていた。
以来、平戸藩六万一千七百石の居城として明治維新まで続いたが、山上の建物は明治8年(1875)に取り壊され、荒廃し、わずかに北虎口門と狸櫓が保存されているだけであったが、昭和35年10月三層の模擬天守閣を始め、各櫓の復元に着手し、昭和37年(1962)に完成した。
北虎口から狸櫓、天守閣、見奏櫓、懐柔櫓、地蔵坂櫓となにやら不思議なネーミングの櫓を見物しながらのコースがお勧めです。ただし、午後4時前に入らないと、櫓を閉めて帰るオバちゃんの後姿を見る羽目になります。
平戸は城以外にも歴史と浪漫の島(通行料:自家用車100円の平戸大橋でつながっています)でいろいろな観光名所があったのですが、城優先の私の旅程ゆえ、見学後はそのままタクシーで日本最西端の駅たびら平戸口駅へただひたすらでした。
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