綾城(別名・竜尾城)
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戦国時代初期の屋形に望楼を搭載した天守櫓
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綾城のはじまりは、今からおよそ660年前の元弘年間(1331〜1334)足利尊氏の家臣であった細川小四郎義門がこの地方に下向を命じられ、その子義遠は収納使として綾を領有し、綾に居館(山城)を構え、綾氏と称した頃と考えられる。
綾氏は数代城主としてこの地方を治めていたが室町時代八代将軍義政のころ都於郡(とのごおり)城を根拠として日向の国の一大豪族となった伊東氏の家臣となった。したがって綾城も伊東氏48城の一つとなり、山東(伊東方)の拠点として重要な役割を果たした。
天正5年(1577)薩摩の島津氏は兵を起こし日向に侵入した。伊東氏は本拠である都於郡城をはじめ、支城を挙げて反撃したが島津軍に破れ、伊東義祐は都於郡城をすて豊後(大分)の大友氏を頼って逃れた。
このとき綾城も島津軍によって占領された。日向を島津領とした島津義久は、都於郡城に鎌田政親を、綾城に新納久時を置いた。
天正15年(1587)豊臣秀吉は九州征伐の軍を進め、日向から大隈方面に進んできた羽柴秀長の軍を島津義久は、都於郡城にあって迎えうった。綾城は都於郡城の後衛の城として守りが固められ、都於郡城の前衛の城、高城で激戦が行われたが、島津氏は退却し、綾城も明け渡された。
戦後島津氏は薩摩一国は安堵され、綾城は島津氏の支配地となり城代が置かれたが、元和元年(1615)江戸幕府の一国一城制度により、綾城は廃城となった。
綾城構築については、日本城郭協会に中世山城の築城ついて考察を依頼し、数次の調査に基づいた考察により想定されたもので、過去に綾城としてこのような建造物が必ず存在した、ということでなく、存在しても不都合ではないという前提で、昭和60年(1985)春日本ではじめての戦国初期城楼建造物として綾町が構築した。
この建造物は、二層の屋形の上に望楼が搭載された様式の近世城郭の天守の源流を示すものであり、いま一つの源流である井楼も城内に再現されている。
綾城のある竜尾山台は錦原舌状台地の東端にあり城地は三郭に先端から連なっていて、先端より一の郭、二の郭、三の郭っと仮称し、その区分は堀切りによって明確であり、綾城建造物群は一の郭と二の郭に造られている。
戦国時代初めの頃の天守様式の見張り櫓だそうですが、その時代のさもありなんという感じでした。
しかし、薩摩と日向を結ぶ要衝の地とはいえ、バスは川沿いでしたがどんどん山の中に入っていくので、どこまで行くのかとチョット不安な気もしました。
綾城へは、手づくりほんものセンター(2Fは綾町観光センタ兼喫茶店でした)と町役場の間の道を入り、錦原公園の周りを歩くとすぐです。(徒歩約10分)
綾城
歴史資料館 平成13年8月11日時点
◇交通
・JR宮崎駅前宮崎交通バス運行センタより約60分、
「綾待合所」下車(\1,020)、徒歩15分
◇開館時間
・4月〜9月:午前9時〜午後5時30分
・10月〜3月:午前9時〜午後5時
◇入場料
・大人 350円 ※ 綾国際クラフトの城との共通券
◇お問い合わせ
・綾町産業観光課 TEL:0985-77-1111
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