秋月は、筑後川支流の野鳥川を発する筑紫山脈系の古処山の麓にあり、その歴史は建仁3年(1203)のころ、この地方の豪族原田種雄が古処山に山城を築き秋月氏を名乗ったことにはじまる。
以降、秋月氏は十七代秋月城に居城し、その支城は二十四ヶ所にも及んだ。
豊臣秀吉の九州征伐に際し、島津氏に属し秀吉軍と戦ったため、秋月種実は戦後、日向高鍋三万石に減封移封され、秋月は廃城となり、筑前は小早川隆景の封領となった。
慶長5年(1600)黒田長政が筑前に入ると、秋月には長政の叔父黒田直之が入ったが、一国一城令により山城を破却して陣屋とした。
寛永元年(1624)二代藩主忠之の弟(長政の三男)長興が五万石を分封され、支藩として入部して秋月藩をひらき、山麓に新しく陣屋を整備した。これが現在残っている堀、土塁、城門ならびに武家屋敷である。
長興は陣屋構築のとき古処山城に用いられた石材その他を利用したという。城構えではあったが陣屋なので天守、櫓などは構えなかった。居館は梅林に囲まれていたので梅林の館と呼ばれていた。
以降、秋月黒田氏は十二代世襲し、明治に至った。
かっては秋月の城下は五万石の城下町にふさわしい武家屋敷が連なっていたが、陣屋跡の辺りには今もその遺構が残り、武家屋敷を利用した秋月郷土館では、藩主の甲冑をはじめ、「島原陣図屏風」などが公開されている。
郷土館前から秋月城跡まで広い桜並木の道が「杉の馬場」で、旧城の堀をはさんで石垣があり、内側が城内の三段の平地で、下から秋月中学校の校庭、中段は奥御殿跡、上段が藩祖を祀る水裕神社、神社の黒門は本来秋月城の大手門であったが移築されたものといわれている。
手前には側室の住む屋敷の通用門として使われていた内馬場裏御門と呼ばれていた長屋門が戦国時代の山城の素朴な風情を伝えている。
秋月城下に入るところにある石造りの眼鏡橋は、文化7年(1810)築造の御影石のアーチ橋であって、長崎の石工の作と伝えられている。
秋月は山ふところに歴史を記す九州・筑前の小京都と言われるだけあり、たたずまいに趣があります。特に桜の季節の杉の馬場通りは素晴らしいことでしょう。
武家屋敷の並びの月見の場は、山から上る月を観るに確かな風情があります。
2001/4からは西鉄と甘木市出資の第3セクタで運行の真新しいバスが甘鉄甘木駅から秋月に約30分に1便出ていますので便利ですが、地元のお年寄りの乗客が多く、超安全運転です。
(路側帯に入ってのバス停駐車は一度もなく、逆に乗客サイドからみると危ない気もしますが。帰りの所要時間は大目に見たほうがよいでしょう。)
|