上田城(別名・尼ヶ淵、真田城) 【 平成20年(2008)版 】

―― 二度にわたり徳川の大軍を破った真田氏の城 ――

平成11年(1999)の 上田城へ
尼ヶ淵を臨む段丘上に立つ本丸南櫓
ダブルクリックで拡大図(57kB)へ
尼ヶ淵を臨む段丘上に立つ本丸南櫓
東虎口への土橋と櫓門正面
ダブルクリックで拡大図(49kB)へ
東虎口への土橋と櫓門正面
 上田城は天正11年(1583)真田雪村(信繁)の父・真田昌幸によって築城開始し、天正13年には一応の完成をみた平城である。
 上田城はいわば地方の小城で、石垣も少なく、一見したところ要害堅固な城とも見えないが、南方は千曲川の分流である尼が淵に面した断崖の臨み、太郎山脈と千曲・神川に取り囲まれた天然の要害に拠っている。

 この上田城はまもなく、天下にその名を知られるようになった。
 それは、この上田城に拠った真田氏が、二度にわたって徳川の大軍の攻撃をうけ、みごとにそれを撃退してしまったからである。

 最初の合戦は天正13年(1585)に行われ、昌幸が徳川家康の命に従わなかったため、家康の怒りに触れ、大久保忠世・鳥居元忠等の率いる信濃・三河の勢八千でこの城を攻めたが、迎え撃つ真田勢は二千人弱であった。
尼ヶ淵を臨む段丘の上に立つ本丸西櫓
ダブルクリックで拡大図(75kB)へ
尼ヶ淵を臨む段丘上に立つ本丸西櫓
東虎口櫓門に続く北櫓
ダブルクリックで拡大図(61kB)へ
東虎口櫓門に続く北櫓
 しかし、真田氏の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗となり、死者を千三百人余もだしたが、これに対して、真田方の死者は四十人ほどで、これに遂に陥れることができなかった。

 二度目の戦いは、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に際し、関ヶ原へ向う途中、上田に押し寄せた徳川秀忠の率いる三万八千という大軍であった。
 豊臣方に属した昌幸・雪村親子はこの城にわずか二千五百人ほどで立て籠った。
 しかし、このときも徳川勢は、上田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘づけされただけに尾終わり、関ヶ原での決戦に遅れるという大失態を演ずることになる。
 全国に数多い近世城郭のなかで、二度も実戦を経験し、しかも常にこのような輝かしい戦果をあげた城は、他に見ることができない。

 真田氏の上田城は、関ヶ原の合戦後に徹底的に破却された。
城内唯一の真田井戸
城内唯一の真田井戸
城内一の大石:真田石
城内一の大石:真田石
 現存する上田城の隅櫓や石垣は、元和8年(1622)仙石忠政が真田氏にかわって上田城に入城後、寛永3年〜5年(1926〜28)にかけて、忠政によって新たに築き直されたものである。
 しかし、城再築は、忠政の病死により中絶し、堀や石垣などの普請(土木工事)は完成したものの、櫓や城門を建てる作事(建築工事)は、二の丸・三の丸を復興したのみで、本丸は未完成に終わった。

 寛永3年(1626)、復興された本丸の七棟の櫓のうち三棟(南、北、西)が現存しているが、真田氏時代そのままであったとみてよく、仙石氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はなかった。
 廃藩置県後、明治7年(1874)、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。
 現在三の丸は市街地と変わってしまったが、本丸と二の丸には土塁・石垣・濠跡が残り、特に本丸の東虎の口には三層の隅櫓と石垣が昔の姿を留めている。
本丸丑寅方角(北東)土塁の隅おとしと水濠
ダブルクリックで拡大図(93kB)へ
本丸丑寅方角(北東)土塁の
隅おとしと水濠

 
二の丸北虎口の石垣(東面)
クリックで拡大図(75kB)にいきます。
二の丸北虎口の石垣
(東面)

[ 上田城 見取り図 へ (52kB) ]

[ 上田城跡公園_案内図 へ (111kB) ]

 昔、真田一族が関ヶ原へ急ぐ徳川秀忠らをこの城一つで食い止めたのかと思うと、東西の隅櫓や石垣の上からの景色も感慨深いものがあります。

 本丸や二の丸内にはたくさんの侍や兵があふれていたのでしょうか。
 空堀を利用した二の丸堀遊歩道を彼女としっとりと歩くのもよいかも。

 再訪時は、二の丸の周りを廻ったのですが、百間堀跡の広さや、尼ヶ淵からの本丸・西櫓、南櫓下の崖は凄いです。 赤土の様ですが、よく崩れないものだとつくづく感心しました。

二の丸東虎口と武者溜
 二の丸への入り口は、正面側である東虎口のほか、北と西の計3箇所あった。
 いずれにも石垣が積まれていたが、このように城の門に枡形を造って敵の城内への直進を防ぎ、曲って出入りするようにした出入口を虎口(小口)という。
 しかし、この二の丸の虎口は、大手門と同じく簡単な木戸が作られていただけで、建物(櫓門)は建てられなかった。

 現市民会館の敷地一帯は、三十間堀と石垣で他から仕切られた一つの郭になっており、『武者溜』とされていた。
 武者溜とは、城門内の外郭に沿った広い場所で、軍勢の屯集、勢ぞろいなどに使われる一画をいう。
 松平家在城時代には、その中に同家の鎮守社などがまつられるようになったためであろうか、この武者溜は『鎮守曲輪』とも呼ばれる。
[ 二の丸・本丸の東虎口と武者溜の図 へ (38kB) ]
東虎口の左側石垣 二の丸土橋と東虎口正面
クリックで拡大図(73kB)にいきます。 東虎口の右側石垣
東虎口の左側石垣二の丸土橋と東虎口正面東虎口の右側石垣
本丸東虎口土橋からの武者溜の広場 二の丸東虎口土橋入口の右側部分 土橋入口の右側に建つ城址碑
本丸東虎口土橋からの
武者溜の広場
二の丸東虎口
土橋入口の右側部分
土橋入口の右側に建つ
城址碑

本丸東虎口櫓門
 本丸には、天守は建てられず、7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられたことが、絵図などの記録と発掘調査によって確認されている。

 現存する3棟の隅櫓のうち、本丸西虎口(城郭の出入口)に建つ1棟(西櫓)は、寛永期の建造当初からのものであるが、本丸東虎口の2棟(南櫓・北櫓)は、明治初期に民間へ払い下げられ、市内に移築されていたものを市民の寄付により買い戻し、昭和18年〜24年にかけて現在の場所に復元したものである。
 これら三棟の櫓は、江戸時代初期の貴重な城郭建造物として、昭和34年(1959)に長野県宝に指定された。

 三櫓の構造形式はいずれも共通で、二層二階、桁行五間、梁間四間の妻入り形式である。
 屋根は入母屋造りで、本瓦を葺き、外廻りは白漆喰塗籠大壁で、腰下見板張り、内部は白漆喰塗りの真壁となっている。
 窓は白漆喰塗りの格子窓で、突き上げ板戸が付いている。

 なお、本丸東虎口櫓門と袖塀は、明治10年頃に撮影された古写真と、石垣の痕跡、発掘調査の成果などをもとに、平成6年に復元したものである。
 櫓門と同時に整備された本丸東虎口の土橋には、両側に武者立石段と呼ばれる石積が設けられ、本丸大手口としての格式をしている。
 
東虎口櫓門(正面)と南櫓 本丸土橋からの東虎口櫓門(正面)と北櫓
東虎口櫓門(正面)と南櫓本丸土橋からの東虎口櫓門(正面)と北櫓 (12kB)
土橋左下の深い空堀 武者立石段と呼ばれる石積が設けられた土橋と東虎口櫓門
クリックで拡大図(59kB)にいきます。 東虎口櫓門右側石垣にある城内最大の真田石
クリックで拡大図(78kB)にいきます。
土橋左下の深い空堀武者立石段と呼ばれる石積が
設けられた土橋と東虎口櫓門
東虎口櫓門右側石垣にある
城内最大の真田石
本丸内北櫓前からの東虎口櫓門
クリックで拡大図(67kB)にいきます。 真田神社鳥居前からの東虎口櫓門(本丸内部側)
クリックで拡大図(62kB)にいきます。 東虎口櫓門二階部分(南櫓側面)
本丸内北櫓前からの
東虎口櫓門
真田神社鳥居前からの
東虎口櫓門(本丸内部側)
東虎口櫓門二階部分
(南櫓側面)

本丸北櫓
東虎口櫓門に続く北櫓
クリックで拡大図(61kB)にいきます。 本丸内側からの北櫓(西面)
クリックで拡大図(87kB)にいきます。 東虎口櫓門前からの北櫓(本丸内側)
東虎口櫓門に続く北櫓
 
本丸内側からの
北櫓(西面)
東虎口櫓門前からの
北櫓(本丸内側)

本丸南櫓
東虎口櫓門に続く南櫓
クリックで拡大図(57kB)にいきます。 本丸内側からの南櫓二階部分(東虎口櫓門側面) 北櫓前からの東虎口櫓門と南櫓(本丸内側)
クリックで拡大図(68kB)にいきます。
東虎口櫓門に続く南櫓
 
本丸内側からの南櫓二階部分
(東虎口櫓門側面)
北櫓前からの東虎口櫓門と
南櫓(本丸内側)
尼が淵跡からの本丸南櫓と下に切立つ断崖と石垣
クリックで拡大図(68kB)にいきます。 尼が淵跡からの本丸南櫓と下に切立つ断崖と石垣
クリックで拡大図(64kB+82kB)にいきます。 南櫓下の尼が淵跡の広場
尼が淵跡からの本丸南櫓と下に切立つ断崖と石垣 南櫓下の尼が淵跡の広場 >
尼が淵跡からの本丸南櫓下の切立つ断崖と石垣 本丸西櫓下の石垣へ 本丸南櫓下の石垣へ 本丸南櫓下の石垣へ
尼が淵跡からの本丸南櫓下の切立つ断崖と石垣 (26kB)

本丸西櫓と西虎口櫓門跡
 尼ヶ淵にのぞむ段丘の上に立つ上田城本丸西隅櫓は、江戸時代初期の寛永3〜5年(1626〜28)にかけて真田氏の後に城主になった仙石氏によって建てられ、上田城で建築当初のままに残されている唯一の建物です。
 壁の下部は板ばり(下見坂)になっているが、これは初期城郭建築の様式で、寒冷地に多く見られる形式です。
 窓は突き上げ戸の「武者窓」、射撃用の小窓「矢狭間・鉄砲狭間」も設けられています。
 
真田神社左横奥の西櫓への登り口 真田神社左横奥からの西櫓(東面)
クリックで拡大図(59kB)にいきます。 本丸からの西虎口跡と西櫓(北面)
クリックで拡大図(69kB)にいきます。
真田神社左横奥の
西櫓への登り口
真田神社左横奥からの
西櫓(東面)
本丸からの西虎口跡と
西櫓(北面)
西虎口跡の石垣(真田神社真後ろ側:南東面) 西虎口跡の石垣(真田神社真後ろ側:北面) 西虎口跡からの西櫓(北面)
クリックで拡大図(45kB)にいきます。
西虎口跡の石垣
(真田神社真後ろ側:南東面)
西虎口跡の石垣
(真田神社真後ろ側:北面)
西虎口跡からの
西櫓(北面)
西櫓前から望む西虎口跡の石垣(西面) 西櫓下から望む西虎口跡の石垣(西面) 二の丸から望む西虎口跡と西櫓(西面)
西櫓前から望む
西虎口跡の石垣(西面)
西櫓下から望む
西虎口跡の石垣(西面)
二の丸から望む
西虎口跡と西櫓(西面)
二の丸から望む本丸西虎口と西櫓(西面)
クリックで拡大図(74kB)にいきます。 尼ヶ淵跡から臨む段丘上に立つ本丸西櫓 本丸西櫓への登り口 段丘上に立つ本丸西櫓
二の丸から望む
本丸西虎口と西櫓(西面)
尼ヶ淵跡から臨む段丘上に立つ本丸西櫓 (23kB)
 
尼ヶ淵に面する西櫓の飾り?の袖扉 尼ヶ淵からの西櫓側への登り道 尼ヶ淵からの西櫓側への登り道
尼ヶ淵に面する
西櫓の飾り?の袖扉
尼ヶ淵からの西櫓側への登り道
 

本丸と真田神社
 真田神社裏にある真田井戸は、城内唯一の大井戸であった。この井戸からは抜け穴があって、城の北方、太郎山麓や藩主居館跡にも通じていたとの伝説もある。
 
北櫓側にある本丸跡碑 杉の木が植わっている本丸跡 真田神社左横奥、西櫓手前にある真田井戸
クリックで拡大図(82kB)にいきます。
北櫓側にある本丸跡碑
 
杉の木が植わっている
本丸跡
真田神社左横奥、
西櫓手前にある真田井戸
真田神社左側に3基ある酒蔵茶屋? 東虎口櫓門前からの真田神社本殿
クリックで拡大図(79kB)にいきます。 神社本殿左横の真田井戸、西櫓への侵入路
真田神社左側に3基ある
酒蔵茶屋?
東虎口櫓門前からの
真田神社本殿
神社本殿左横の
真田井戸、西櫓への侵入路

堀と土塁(土居)
 仙石忠政によって復興された上田城には、本丸に7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられていました。本丸の東西の虎口(出入口)には、一対の石垣が築かれ、櫓門と2棟の隅櫓が建てられ、北東部の土塁上には2棟、北西部の土塁上には1棟の隅櫓が建てられていました。
 本丸北西部の隅櫓は、二の丸西虎口の正面に位置し、西側から侵入してくる敵に備えた櫓でした。

 上田城の堀は、ほとんどが素掘りののままであり、また、掘り上げた土で土塁を築いてある。
 本丸と二の丸の土塁と堀は、北東の隅が直角ではなく、内側に折れて切り欠きが設けられています。北東(丑寅)の方角は「鬼門」と呼ばれ、古来より災いや物の怪が侵入してくる方角と考えられていました。北東の隅に切り欠けを設けて鬼門を封じる風習は京都御所の土塀にもみられ、真田昌幸による縄張りの遺構と考えられています。
 
本丸西側の土塁上から西櫓方面(南側) 本丸西側土塁上から北西(戌亥)隅櫓跡方面(北側) 北西(戌亥)隅櫓跡
本丸西側の土塁上から
西櫓方面(南側)
本丸西側土塁上から
北西(戌亥)隅櫓跡方面(北側)
北西(戌亥)隅櫓跡
 
本丸北側の土塁上からの北西(戌亥)隅櫓跡方面(西側) 北東(丑寅)隅櫓跡(北側) 北東(丑寅)隅櫓跡(北側)
本丸北側の土塁上からの
北西(戌亥)隅櫓跡方面(西側)
北東(丑寅)隅櫓跡
(北側)
北東(丑寅)隅櫓跡
(北側)
北東(丑寅)隅櫓跡(南側)と北櫓方面(南側) 本丸東側土塁上からの北東隅櫓跡(南側)方面(北側)
北東(丑寅)隅櫓跡(南側)と
北櫓方面(南側)
本丸東側土塁上からの
北東隅櫓跡(南側)方面(北側)
東虎口櫓門前の土橋(北面)と本丸堀(東側) 北東隅櫓跡前からの本丸堀(東側南方面) 東虎口櫓門前土橋からの本丸堀(東側北方面)
東虎口櫓門前の土橋(北面)と
本丸堀(東側)
北東隅櫓跡前からの
本丸堀(東側南方面)
東虎口櫓門前土橋からの
本丸堀(東側北方面)
本丸北東(丑寅)の土塁隅の「鬼門除け」の切り欠け 北東隅櫓跡前からの本丸堀(北側西方面)
本丸北東(丑寅)の土塁隅の「鬼門除け」の切り欠け (18kB)
 
北東隅櫓跡前からの
本丸堀(北側西方面)
二の丸西虎口跡前からの本丸北西隅の堀と土塁 西虎口跡前土橋からの本丸堀と土塁(西側北方面) 二の丸西虎口跡前からの本丸西櫓前の土橋と堀
クリックで拡大図(100kB)にいきます。
二の丸西虎口跡前からの
本丸北西隅の堀と土塁
西虎口跡前土橋からの
本丸堀と土塁(西側北方面)
二の丸西虎口跡前からの
本丸西櫓前の土橋と堀

二の丸北虎口跡と百間堀跡
北虎口跡の石垣(東面)
クリックで拡大図(75kB)にいきます。 北側から見た北虎口跡の石垣 北側から見た北虎口跡の本丸側石垣
北虎口跡の石垣(東面)
 
北側から見た
北虎口跡の石垣
北側から見た
北虎口跡の本丸側石垣
本丸側から見た北虎口跡の石垣(南面) 北虎口跡北側から見た百間堀跡の陸上競技場
クリックで拡大図(49kB)にいきます。
本丸側から見た
北虎口跡の石垣(南面)
北虎口跡北側から見た
百間堀跡の陸上競技場
本丸側から見た北虎口跡の北側石垣 北虎口跡の北側石垣(東面)
本丸側から見た北虎口跡の北側石垣 (19kB)北虎口跡の北側石垣(東面)

二の丸空堀
 二の丸東虎口の前、「二の丸橋」が架かる二の丸空堀は、付近の河川の旧川道を用いた空堀で、かってはここは線路に転用され、駅があった場所でもあります。
 二の丸西側も、市営野球場などに大半は埋められてしまいましたが、まだ、わずかに深い空堀が残っています。。
 
小泉橋からの二の丸空堀(南方面) 二の丸西虎口前の小泉橋と空堀(南面) 二の丸花木園後土塁からの二の丸西側空堀(小泉橋方面)
小泉橋からの
二の丸空堀(南方面)
二の丸西虎口前の
小泉橋と空堀(南面)
二の丸花木園後土塁からの
二の丸西側空堀(小泉橋方面)
小泉橋からの二の丸空堀の市営野球場建物入口(北方面) 小泉橋からの二の丸西虎口前からの空堀への階段(北方面) 二の丸西虎口前からの小泉橋方面
小泉橋からの二の丸西虎口前の空堀と市営野球場建物入口(北方面)
 
二の丸西虎口前からの
小泉橋方面(西方面)
二の丸空堀からの二の丸橋(南面) 二の丸橋下からの二の丸空堀と左側の駅跡(北方面)
クリックで拡大図(103kB)にいきます。 二の丸空堀(二の丸橋方面)
二の丸空堀からの
二の丸橋(南面)
二の丸橋下からの二の丸空堀と
左側の駅跡(北方面)
二の丸空堀
(二の丸橋方面)

藩主居館
 上田城三の丸内の現上田高校の敷地は、真田氏以降、仙石氏、松平氏と続いた上田藩主の居館であり、「御屋形」と呼ばれていた。四囲に堀と土塁をめぐらした陣屋の構えを取っていた。
 堀を含めた敷地の広さは、東西が74間3尺(135.5m)、南北が74間2尺であった。
 屋形の基本的な構成は、当初から大きな変化はなかったものと見られるが、松平氏時代の様子のあらましは次のようであった。屋形は入口側から、御表・勝手・御奥の三つの殿舎群に分けられていた。御表は、藩主の公的な生活の場で、大書院・大広間等があった。勝手は、藩主の居間で小書院・表居間など、また、御奥には藩主の寝室・側室の部屋などがあった。
 
堀跡越しの藩主屋敷門(左側) 上田高校にある藩主屋敷門の正面
クリックで拡大図(101kB)にいきます。 堀跡越しの藩主屋敷門(右側)
堀跡越しの藩主屋敷門
(左側)
上田高校にある
藩主屋敷門の正面
堀跡越しの藩主屋敷門
(右側)
屋敷門の左側堀跡(南東部) 高校内からの藩主屋敷門(内側) 藩主屋敷跡北面の堀跡
屋敷門の左側堀跡
(南東部)
高校内からの藩主屋敷門
(内側)
藩主屋敷跡北面の堀跡
 


 上田城跡公園                                       平成20年8月12日時点  
◇所在地 ・長野県上田市二の丸6263番地イ
◇交通 ・JR長野新幹線/しなの鉄道 上田駅を下車し、お城口から徒歩約12分 
・上信越自動車道・上田菅平丸IC〜国道144号線を上田市街に南下し〜国道18号線〜  
    〜国道141号線を上田駅に向かい、駅前を右折し約500mで右に駐車場
◇駐車場 ・上田城跡無料駐車場を利用(専用トイレがあり)
◇開館時間・午前8時30分〜午後5時(ただし入館は午後4時30分まで) 
◇休館日・毎週水曜日と祝日の翌日(ただし、城櫓は冬期12月〜3月は休館) 
◇入場料・一般:250円、高校・大学等:180円、小・中学生:60円 
    ※ 上田市立博物館・上田城櫓・山本鼎記念館共通
◇問い合わせ ・上田市立博物館  TEL(0268)22-1274
    長野県上田市二の丸3-3(上田城跡公園内) 
上田市観光課  TEL:0268-22-4100(代表)
    長野県上田市大手一丁目11番16号

参考文献・現地解説板、現地入手のパンフレット

go to home page  日本のお城めぐり へ  (C)1999,2008,2009, kみむ