新府城

―― 六ヶ月の突貫工事のあと2ヶ月で廃れた勝頼の城 ――

本丸武田八幡神社本殿横にある能舞台
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本丸武田八幡神社
本殿横にある能舞台
新府城本丸広場
本丸広場
 武田勝頼は、天正元年(1573)に父信玄が没して後、天正3年(1575)織田・徳川両氏と長篠に戦って破れ、多くの武将を失い、次第に圧迫されてきました。
 天正9年(1581)二月には木曽義昌が信長に降り、信長の甲州進攻の動きが盛んになってきたので、勝頼は、平館の古府(躑躅ヶ崎館)では心もとなく思い、穴山梅雪の進言によって韮崎の山上に大城郭の新府城を築くことにした。
 新府城は、その年の七月に起工し、突貫工事の末に十二月末にほぼ完成し、移った城である。

 城は、釜無川の北岸に連なる山脈中の一挙を利用したもので、南北600m、東西550m、外堀の水準と本丸の標高差80m、型式は平山城で、一方は自然の深崖をなしているが、近世城郭のような石垣は用いず、高さ2.5mの土塁を巡らすのみで、縄張りは粗放であった。
 城の最高所は本丸で、広さは東西90m、南北120m、本丸の西に「シトミの構え」を隔てて二の丸があり大手に続いていた。

新府城二の丸広場
二の丸広場
新府城二の丸広場
二の丸広場
 城の北西から北、北東へは堀が巡り、北方の高地からの敵襲に備えて、十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の「出構え」が築かれている。
 三の丸の南方には大手が開け、望楼があり、三日月形の堀とその外側に馬出しの土塁が設けてある。本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。搦手にも望楼がある。

 「シトミの構え」、「出構え」は新府城の特色で防御のために工夫されたもので特に「出構え」は鉄砲のような新鋭兵器を持った敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。

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新府城三の丸からの二の丸土手
三の丸からの
二の丸土手
新府城東三の丸の土手
東三の丸の土手
 翌天正10年二月穴山梅雪は徳川家康に降り、先導して駿河路から、信長は木曽路から、信長の嫡男信忠は信濃路から甲斐に攻め込んで来た。
 勝頼は二万の兵を率いて諏訪に出陣したが、野外戦では勝算が立たず、新府城に引き返した。
 この間、信長軍は伊那の高遠城を攻めて奪取し、甲州への進撃を続けた。
 こうした信長軍の怒涛のような進撃振りは勝頼の軍を畏怖させ、逃走する者が相つぎ、新府城に戻った時は手勢はわずか三千に激減していた。

 勝頼は新府城で最後の軍議を開いたが、会議では真田昌幸が勝頼の真田領への一時逃避を勧めたが容れられず、勝頼は郡内の小山田信茂の岩殿山城へ一時入城することになり、三月三日新府城に火を放って出発した。
 この時には兵は三、四百名に激減していたが、さらに小山田信茂の叛にあって天目山麓で自害して甲斐武田家は滅んだ。

新府城北の武田八幡神社に上る石段
北の武田八幡神社に上る石段
新府城本丸にある武田八幡神社本殿
本丸にある武田八幡神社本殿

 小高い台地の上のさらに丘の上にある平山城ですが、南大手門跡をとおり、三の丸、二の丸をのぼると(過ぎとに近い)広い本丸にでます。六ヶ月の突貫工事で造った城だったそうですが、建物はどこまで出来ていたのでしょうか??勝頼は火を放って天目山まで退散したらしいのですが。

 残念ながら、私も大手門下の三日月堀は確認できませんでした。

 また、北方より城北の武田八幡神社に上る石段は二百三十九段ありと古記にあるそうで、急な石段ですよ。(それを避ける方は乙女坂を登ってね!)

 4月初めには、JR穴山駅から新府駅との間をウォーキングして、新府城の桜と隣の桃の花が一斉に咲いた桃源郷を散歩するのが最高です。


 新府城                           平成16年4月17日時点  
◇交通 ・JR中央本線、新府駅(韮崎の一つ先)下車、徒歩約10分で城入り口へ
・JR中央本線、韮崎駅から穴山橋行きバス10分、武田八幡下車、徒歩5分
・JR中央本線、韮崎駅から徒歩だと約40分
◇お問合せ 韮崎市役所商工観光課
  山梨県韮崎市水神1-3-1
    TEL:0551-22-1111

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