和歌山城(別名・虎伏城、竹垣城)
―― 徳川御三家にふさわしい大城郭 ――
![]() 和歌山城の本丸は標高48.9mの虎伏山(海上から見た形態が虎の伏せた姿に似ているというので、虎伏城とも呼ばれる。)の頂に位置し、東部の本丸御殿と西部の天守郭(曲輪)で構成されている。 天守郭は、大天守・小天守・御台所・乾門・二の御門櫓・楠門を多聞で連結し、楠門を閉じると要塞化する連立天守の形態をとる。 なお、和歌山城は、この城を創築したとき、城のある丘を「若山」と命名したので若山城の別名がある。 一説では、築城工事の際、お虎という女性を人柱にしたからだとも言われている。
和歌山付近は、かって「雑賀の庄」と呼ばれていた。中世は「雑賀衆」「根来衆」などが活躍していたところとしても名高い。
雑賀衆は、一向衆徒の集まりで鈴木孫一を棟梁にして信長・秀吉と対立した。信長が部下明智光秀に弑せられ、秀吉の時代となるが、相も変わらず雑賀衆は秀吉にも反抗した。 そこでついに天正13年(1585)秀吉は根来・雑賀征伐を決意した。根来衆は、鉄砲をとり入れ、射撃と製造に習熟するなど進歩しており、その鉄砲隊をもって激しく抵抗したが、次第に押されていって、最後の拠点、根来寺とともに灰燼に帰した。 根来・雑賀討伐に戦功を挙げた秀吉の弟羽柴秀長は、和泉・紀伊の二国を賜わり、「吹上の峰」という小丘に城を築いた。 ![]() 和歌山城は紀ノ川の河口に近く、四方の眺望もすばらしい地点である。気にいった秀長は自ら縄張りをし、藤堂和泉守高虎、羽田長門守一庵法印の二人に命じて普請させた。現在の和歌山城の嚆矢(こうし)である。 しかし、秀長は和歌山城の完成を見ずに大和郡山に在城のため、その後和歌山の地へ戻ることはなかった。 翌天正14年(1586)に、秀長の家臣である桑山重晴が城代として3万石を領し和歌山城に入城した。桑山氏は14年間の在城期間に和歌山城の本丸部分を中心に築城を進めた。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の功により浅野幸長が37万6千石を領して和歌山城の城主となり、桑山氏は大和布施に移封された。浅野氏は19年間の在任中に、二の丸部分・御屋敷等を整備させたり、一之橋を大手にするなどその後の基礎となる築城工事を次々と行ったといわれる。
元和5年(1619)、浅野氏は安芸国広島に移封され、徳川家康の第十子頼宣が駿府より55万5千石の太守として入城、以後和歌山城は、御三家紀伊徳川家の居城となり「南海の鎮」として、幕府西国支配の拠点として新たな役割を担うことになる。頼宣の入城の際にはは将軍秀忠から銀二千貫を与えられて、元和7年から城の大拡張工事を起こし、徳川御三家にふさわしくすべく二の丸・南の丸等を拡張、西の丸に紅葉渓庭園建設等の工事を進めた。
また、広瀬川の対岸に新町、そして大門川(広瀬川の上流)の対岸にも北新町をつくるなど、城下町の拡張整備にも努力した。頼宣以来、和歌山は徳川親藩の城下として栄え、明治維新に至った。
最初の天守は五層の大天守(三層ともいう)であったが、弘化3年(1846)落雷により焼失した。当時、天守閣の復興禁止令が出されていたので、普通だったら、焼けたら御殿を作るか、他の櫓を代用するのが一般的であったが、御三家だからというので特別に許可が出て、五年後の嘉永3年(1850)に「有形の通」に再建された。 新しい天守は維新の少し前に築かれただけにモダンな感じの建物である。白堊の塗込め造りの三層大天守が、それを巡る三棟の小天守と並び立って、濃緑の上に華麗な姿を見せている。姫路城と同じ典型的な連立式天守である。 |
この再建された天守は、昭和20年(1945)に戦火で再び焼失してしまった。その後10年間は天守台のみの姿であったが、和歌山城再建を望む市民の熱意によって、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造りの天守が外観を旧態どおりに復元された。 徳川御三家にふさわしい大城郭です。名古屋城の縄張りにも匹敵します。 それに比べ、大天守と多聞櫓がこじんまりとしていますね。 城内にある水禽園(野鳥園)の上の電線に鈴なりの鳩が実に壮観・・・。変なことに感心。 |
| 和歌山城 平成11年8月17日時点 | |
| ◇交通機関 | ・JR和歌山駅、南海電鉄和歌山市駅からバス「公園前」下車、徒歩すぐ ・南海電鉄和歌山市駅から徒歩、約10分 ・JR和歌山駅から徒歩、約20分 |
| ◇開館時間 | 3月〜11月 午前9時〜午後4時30分 12月〜2月 午前9時〜午後4時 |
| ◇休館日 | 12月29日〜12月31日 |
| ◇入館料 | 大人(高校生含む) 350円、小人 170円 |
| ◇お問合せ | 和歌山城管理事務所 和歌山市七番超丁23 TEL:(0734)32-0001 和歌山城天守閣 TEL:(0734)22-8979 |