亀岡城(別名・亀山、亀宝、霞城)

―― 大坂城攻めの一環、天下普請の五層天守 ――

千代川小学校に移築された
亀岡城新御殿門(現存)
クリックで拡大図へ(63kB) 亀岡城天主台の石垣
クリックで拡大図へ(65kB)  亀岡は古くは亀山と呼ばれていたが、伊勢の亀山と区別するため明治になって亀山に変えられた。
 亀岡城は天正5年(1577)に織田信長の命により明智光秀が築いたものであり、光秀はこの城を拠点に"丹波の光秀"の名を馳せた。彼の時代にすでに「惣堀」と呼ばれた堀が存在した。

 天正10年、明智光秀は亀岡の城で中国出兵の準備を整えたが、六月一日この城から出陣、京本能寺に信長を倒した。山崎の戦いののち羽柴秀勝が居城したが、その後度々城主が替わり、慶長14年(1609)岡部長盛が城主のとき大坂の豊臣氏に対する包囲網の一環として天下普請の大改築が行われた。このとき天守は藤堂高虎が造った伊予今治城の五層の天守が移築され、二ノ丸北櫓・大手門などが建設され、三ノ丸の拡張なども含め、亀山藩政の中心として整備された。

亀岡城外堀 亀岡城の堀と本丸石垣  城は、北側壁を大堰川に洗われた台地上にあり、本丸から同心円状に二ノ丸、三ノ丸が広がり、本丸のほぼ中央に天守があり、塁線の多聞櫓から独立している。
 明治初期の写真および絵図面によれば、天守は五層で、その高さは十二間五尺九寸、また天主台の高さは三間であった。
 天守内部へは、西側の小天守から出入りしていた。天守の外観は五階に唐破風屋根と高欄がある以外は、全体的に装飾面は乏しい。ただ、当時としては珍しい層塔型天守であった。
 本丸等の石垣は大正、昭和期に大部分積み直されているが、当時の石自体は多く残っており、天下普請の刻印が数多く見られる。

 以後、火災・地震の破損修理等はあったが、城内の構造は基本的に変化せず、明治維新まで続いた。
亀岡城本丸石垣 亀岡城本丸石垣  明治10年(1877)廃城となり、城は取り壊され、城址は民間に払い下げられた。大正8年(1919)本丸・二ノ丸が大本教の所有となった。

 現在新御殿門が千代川小学校、明智門が桂林寺山門として移築現存されている。

 本丸石垣、外堀、そして内の空堀は昔の規模を残しています。
 しかしながら、大本教本部の土地となったとはいえ、天守台がマカおかしき神聖なモニュメントに犯されていて、立入禁止になっていました。悪趣味というか、信教の怖さを感じざるおえませんでした。


  亀岡城                    平成14年8月10日時点  
◇交通 JR山陰本線亀岡駅より徒歩約8分
◇お問合せ 亀岡市役所商工観光課
      TEL:0771-22-3131

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