高取城(別名・越智、芙蓉城)
―― 吉野山系に築かれた近世城郭屈指の山城 ――
築造年代に関しては元弘2年(1332)との説もあるが、確実ではない。しかし、南北朝時代、南大和(大和高市一帯)に大きな力を振るった豪族・越智一族が、高取山の頂に砦のような城を築いたのが始めと言われている。 元弘の頃に一時子嶋氏の居城となり、さらに越智氏の居城となった。 城の形態としては、永正から天文(1504〜1554)の頃に、整備されたと見るべきであろう。 当初の頃は越智氏にしても高取城をたんに越智城、貝吹山城に対する出城としか考えていなかったようであるが、自然的要害の条件を備えているところから次第に本格的なものとして重視されるに至ったようである。
越智氏なき後、織田信長の城郭破却令によって廃城になっていた高取城の復活が筒井順慶によって企図され、天正12年(1584)2月、高取城を出城と定め、郡山城ともども工事を進めたのであった。 この一国的規模での本城―出城主義の方針は豊臣秀長にも引き継がれ、本格的に近世城郭としての高取城が築かれたのは、百万石として大和郡山城に入った豊臣秀長と秀保の時代であった。 天正13年(1585)豊臣秀長の重臣本多太郎佐衛門(1万5千石余)が高取城主となり、天守閣・石塁など本格的な築城が進められた。これは郡山城を本城とし、高取城を詰城、即ち控えの城として計画されていたもので、最後の一戦を決すべき拠点として重視されていたのである。
城跡は、標高583.3mの山頂部を本丸とし、以下二ノ丸、三ノ丸、大手曲輪、吉野口曲輪、壺坂口曲輪が連なっている。 それに隣接する外郭部は、侍屋敷群と放射線状にのびる大手筋、岡口、壺坂口、吉野口の入口があった。 これら主体部はかって土塁、柵、空堀等により、段丘状の削平地に築かれた中世城郭の城域を一部拡大したものであったろう。その意味で現存する内郭、外郭の縄張りは兵法を強く意識した近世城郭の完成期の特徴を示す構造になっている。 例えば、矢場門から宇陀門、千早門そして大手門の門台石組み遺構にみられるように、いずれも右折れ虎口(入口)として配置されている。
天守は三重三階地下一階で、東西方向に棟(二つの屋根面が合わさる稜線)をとっていた。 天守曲輪南西端には三重の小天守が構えられ、天守とは二重の多聞櫓で結ばれていた。なお、天守曲輪の東辺には二重の多聞の両端が三重となる焔硝櫓(火薬庫)が配される厳重な構えであった。 本丸の西側には二の丸が配置されており、ここには藩主の居館であった二の丸御殿があった。 その他、本丸の桝形虎口の精緻さや、本丸の各隅角部石垣に利用された転用石材(寺院の基壇石、古墳石室の石材等)も特記されよう。また、本丸鉛櫓下の背面に補助的に設けられた付台石垣の下に配列された胴木の存在は山城での遺構例として唯一の発見例として注目すべきものである。
明治維新の後、明治政府は各地にある城郭のうち、58城を残し、144城の廃毀を決めた。大和の国の郡山、高取の2城も廃毀となった。 高取城は、明治6年入札により、詳細は残っていないので不明であるが、城郭の大部分が寺院などに売却されたと思われる。ただ人里離れた山頂であるため、その綱張りにおいては完全に近く遺構をとどめており、昭和28年(1953)に国の史跡に指定されている。 石垣はほぼ今日まで原形を残しているが、一部崩壊やひずみの激しい箇所の修理を昭和47年(1972)以降繰り返し実施している。
しかし、苔むした石がごろごろし、途中の七曲りをはじめ、二の門跡までは、結構きつかったです。 でも、高見台からの見晴らしのよさと、二汗以上かいた身体への風通しも最高です。 頂上付近にも関わらず、侍屋敷跡から宇陀門跡、三の丸、二の丸、本丸、そして天守台と、よくもこんな山の上に広い土地とその周りに石垣を築けたものだと感心しました。 特に本丸北西の天守台の高石垣はすごいです。 本丸の周りもあまり人が歩いていませんが、高い石垣が四方を囲っていて、見ものです。 |
| 高取城跡 平成16年8月7日時点 | |
| ◇交通 |
・近鉄吉野線壺阪山駅から、上子島、砂防モデル施設公園、二ノ門跡経由で徒歩約1.5時間で本丸へ ・近鉄吉野線壺阪山駅から、奈良交通バス壺阪寺行き15分、下車五百羅漢経由で徒歩約1時間で本丸へ (大阪あべの橋から壺阪山駅まで近鉄特急約50分、京都駅から壺阪山駅まで近鉄特急約1時間5分) |
| ◇お問合せ | ・高取町役場総務課企画財政室 TEL:0774-52-3334 |
| 参考文献 | ・『近鉄てくてくまっぷ#5』 ・現地の解説板 ・歴史群像シリーズ よみがえる日本の城#1 (学習研究社) |