| 二の丸大手門 (重要文化財) | ||
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| 城の表の入口である大手口にある大手門(幕末まで追手門とも称した)は、元和6年(1620)に創建したが、天明3年(1783)に落雷によって破損し、現在のものは嘉永元年(1848)に大掛かりな補修をしたものである。 | ||
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| 駐車場側からの 二の丸大手門(西面) | 二の丸大手門と枡形内部 | 枡形内から見た 大手門(裏側) |
| 二の丸千貫櫓 (重要文化財) ( topへ ) | ||
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大坂城の大手口を守る重要な隅櫓の一つで、元和6年(1620)に創建されたもので、現存の城内古建築物の中で乾櫓とともに最も古いものである。 名称の由来については、織田信長軍の石山本願寺攻めの時、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、あの櫓さえ落とせるなら銭千貫文与えても惜しくないと話し合ったというエピソードが伝えられている。 | ||
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| 二の丸大手口前からの 千貫櫓(南西面) | 大手門前からの千貫櫓と 多聞櫓(西面) | 駐車場前からの二の丸大手門と 多聞櫓、千貫櫓(南面) |
| 二の丸太鼓櫓跡 ( topへ ) | |
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太鼓櫓は、もと二の丸南部への出入り口にあたり、左右の石垣の間に南仕切門と呼ばれる城門があった。右側の石垣の上に、太鼓を蔵する小さな二層櫓があり太鼓櫓と呼ばれていた。 太鼓櫓の創建は寛永5年(1628)である。この太鼓は平時には時刻を知らせ、戦時には将士の招集や出陣の合図に打ち鳴らされた。明治元年(1868)の城中大火で焼失した。 | |
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| 太鼓櫓跡の石垣 | 太鼓櫓跡の石垣 |
| 西の丸乾櫓 (重要文化財) ( topへ ) | ||
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| 西の丸石垣と乾櫓(北面) | 南外堀と乾櫓(北西面) | 西の丸石垣と乾櫓(西面) |
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| 京橋口側の 西の丸の門 | 京橋口側の 西の丸の門内部 | |
| 二の丸六番櫓 (重要文化財) ( topへ ) | ||
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| 駐車場前からの南外堀と 二の丸六番櫓(西南西面) | 南外堀と 二の丸六番櫓(南西面) | 南外堀と 二の丸六番櫓(南面) |
| 二の丸一番櫓 (重要文化財) ( topへ ) | ||
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二の丸南側には東から西へ一番から七番までの隅櫓があった。櫓は矢倉とも書き、倉庫的な役割も兼ねている。 一番櫓は玉造口を側射する位置にあり、石狭間、腰狭間、武者窓と三段構えで開口部も多く、一時に多くの射撃ができる仕組みとなっており、また窓の内側に障子を建て常時武士が居住できる構造となっている。 創建は寛永5年(1628)と考えられるが、寛文8年(1668)と天保3年(1832)に大修理が行われた。 | ||
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| 南外堀と 二の丸一番櫓(南東面) | 二の丸一番櫓(東面) | 二の丸内部からの 一番櫓(北西面) |
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| 南外堀と二の丸一番櫓(南面) | ||
| 二の丸搦め手口 ( topへ 、次へ ) | ||
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大坂城の搦手口には、東に玉造門、西北に京橋門、北に青屋門を備えていた。 青屋門は大坂城の非常口とも言うべき門で、徳川時代の元和6年(1620)頃創建され、算盤橋と称する引橋(押出し、引入れ自在の装置)が架かっていた。 この門は昭和20年(1945)8月の大空襲の被害にあい大破したが、昭和45年81970)に大阪市が残材をもって現状のものに復元した。 青屋門の名称の由来は大坂本願寺時代、この門付近に青屋町があったことによるものと推定されている。 | ||
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| 二の丸からの 京橋門跡の石垣 | 京橋口枡形内の巨石 | 京橋口と西の丸の 境の石垣 |
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| 二の丸青屋門(表側) | 二の丸内部からの 青屋門(裏側) | 本丸石垣上からの 二の丸青屋門 |