長浜城(別名・今浜城)

―― 初めての一国一城の主となった秀吉の出世城 ――

模擬天守長浜城 豊公園入口からの長浜城 ◆秀吉の長浜築城
 長浜城は、古くは今浜城といい、南北朝時代、足利氏の謀将で「バサラ大名」として有名な京極道誉の家臣今浜六朗左衛門が創築し、その後、上坂氏が守将として在城したといわれている。

 天正元年(1573)9月浅井長政滅亡後、湖北(琵琶湖の北部)を支配したのは、羽柴(豊臣)秀吉であった。
 織田信長の浅井攻めの拠点であった横山城(今の長浜市堀部町附近)を守り活躍した秀吉は、その功績によって浅井長政の旧領である伊香・東浅井・坂田の北近江三郡を与えられ小谷城に入った。

 しかし、翌天正2年に夏には、小谷城が山中にあり、領国支配に不適当であったので、北国街道に近く、水陸両路の要衝で、しかも鉄砲生産地の国友村の管理に便利な今浜(今の長浜市公園町附近)に築城を開始している。

琵琶湖の渇水時現れる太閤の井戸
 秀吉の築城については、当時の絵図や古文書がほとんど伝存せず、不明な部分が多い。ただ、材木は竹生島などから運んできたことや、石垣用の石材は領内から集められ石仏や五輪塔などの墓石まで使用され、土木工事には領内の住人が徴発されたことがわかっている。

 築城工事は1年以上もかかっており、天正3年秋頃に秀吉は小谷から今浜城に移り、地名を信長の一字をもらって「長浜」と改めた。草履取りから身を立てた秀吉が、ついに一国一城の主に出世したしたのである。

模擬天守長浜城
◆長浜城その後
 八年後の天正10年(1582)に至り、本能寺の変で信長が横死し、清洲会議で北近江は柴田勝家の甥勝豊(=越前・丸岡城の築城主)に与えられたが、勝家・勝豊が不和になったことを知った秀吉は、その隙を突いて同年冬に城を奪還した。翌天正11年1583)4月の柴田勝家との賎ヶ岳の戦いには、ここを根拠地として大勝し、偉名を天下にとどろかせた。

 天正13年から同18年まで山内一豊が城主となり、その移封後は次第に荒廃し、湖北真宗門徒の惣会所が城内に移されたともいう。この時期湖北は、佐和山城主石田三成(現、長浜市石田町出身)の支配下に入っている。

 慶長11年(1606)には徳川家康の異母弟内藤重成が城主となり大改修を行う。慶長17年その子の信正が城主となるが、元和元年(1615)の一国一城令で摂津高槻城への移封によって、長浜城は廃城となり湖北支配の役割を彦根城に譲って使命を終えた。

 廃城後、石垣・櫓材などは彦根城などに運ばれ、長浜城の姿は完全に失われた。市内大通寺の台所門、知善院の表門や彦根城天秤櫓などはその遺構と伝えられる。


◆昭和の長浜城築城
JR長浜駅からの長浜城  現在の長浜城は、昭和58年(1983)に、市立長浜城歴史博物館として開館。本館の外観は、2層の大屋根に望楼をのせた初期天守の様式で、「秀吉の長浜城」を再興しようという市民の熱望によって天正期の城郭を想定し築城した。
 北陸本線の電車の窓から見るだけでなく、歩いて数分の天守閣=市立長浜城歴史博物館に登って、秀吉の頃に思いをはせてみては。(長浜城と長浜市内案内図)
 ただ、琵琶湖の異臭にはマイッタ。時間があれば、近くの??温泉で汗を流して帰るのもよいかも。



     市立長浜城歴史博物館           平成10年8月16日時点  
◇交通JRびわこ線長浜駅より徒歩約5分
高速道路 北陸自動車道 長浜ICより車で約15分
◇開館時間午前9時〜午後5時まで (入館受付は午後4時30分まで)
◇休館日月曜日・毎月最終火曜日(祝日は除く)・祝日の翌日
12月29日〜翌1月3日 (2月、4月、8月は休まず開館しています)
◇入館料一般 400円、小・中学生人 100円
◇駐車場豊公園駐車場(無料)自家用車120台

go to home page  日本の城郭めぐり へ  © 1998 kみむ