姫路城(別名・白鷺城)
―― 日本一の華麗さを誇る池田輝政の白鷺城 ――
| 【 昭和47年(1972)ころの 姫路城へ】 | |
姫路城(白鷺城)は、南北朝のころの元弘3年(1333)に播磨の豪族赤松則村が護国親王の命により兵を挙げ播磨から京に向かう途中、拠点として姫山に陣を構え、砦を造ったことによる。当時は臨時の城塞であった。 その後南北朝の乱世が終わりをとげ、室町幕府が開かれてまもなくの正平元年(1346)則村の二男貞範がはじめて居城として、標高46メートルの姫山に「姫山の城」を築いたことにはじまる。これが今に見る姫路城備前丸、天守曲輪にあたるといわれる。 約百年後の応仁年間(1467〜68)に至って、姫山の城には山名政則が居城した。政則は入城するや否や、戦国乱世に備えて、本丸・鶴居丸・桜ノ門・桜ノ馬場・桐ノ門・菊ノ門などを造営したという。鶴居丸は今の二の丸に相当すると思われ、まだ、今に見る西の丸は域内には入っていまかたようだ。 やがて山名政則は、文明元年(1469)姫路の北に置塩城を修理して、これを本拠として移り、姫山城は小寺豊織が城代となった。
天文14年(1545)小寺氏のあと黒田氏が城代となり、約400年前、黒田官兵衛孝高のとき、織田信長の命令で毛利征伐に出陣した羽柴秀吉に、西国攻略の根拠地・前線基地として一族の小寺氏の城を提供した。秀吉は当初は三木城に入るつもりであったが、天正8年(1580)姫山城に入城し、本拠を置いた。秀吉は翌9年三木城別所一族を滅ぼしてから、姫山の西側にある鷺山も城の中に取り込み大改修を施し、石垣が築かれ、本丸と二の丸が設けられ、本丸に三層の天守閣を完成させ、姫路城と名称を改めたといわれている。天守閣のあった本丸は今の西の丸あたりとされる。 秀吉は、その後、弟の羽柴秀長や義兄の木下家定を在城させた。 20年後、関ケ原の戦役により徳川家康の娘婿池田輝政が、 三河国吉田(現在の豊橋)の城から西の鎮めとして播磨国52万石を与えられ姫路城に入城した。
池田輝政は、慶長六年(1601)から約8年を費やして南の外濠を現在のJR山陽本線付近とする程の大きな規模に城域を拡張し、姫山にあった秀吉時代の三重の天守を取り除き、ひとまわり大きな東西十三間・南北十間の石垣を積み、五重六階地下一階の大天守を建て、これに三基の小天守が連立する守りの堅い連絡式天守閣の名城をつくった。四基の天守に囲まれた中庭には台所をおき、龍城の際の設備とした。本丸・二の丸・三の丸・西の丸を内曲輪とし、平地に中曲輪、外曲輪を配置し、三重の螺旋状の堀を巡らした。
池田氏三代のあと元和3(1617)に15万石で入封した本多忠政は、城主の居所を備前丸から三の丸へ移し、東御屋敷・西御屋敷などの居館を構えた。
さらに忠政は、嫡子忠刻とその室千姫(徳川秀忠の長女)のために、西の丸を整備して、元和4年(1618)百間廊下と呼ぶ長局を巡らせ、外郭を固め、内郭に夫妻の居館(滅失)を設けて今日に見る名城としての姫路城の威容を完成させた。その後、城主は松平(奥平)氏、松平(越前)氏、榊原氏、松平(越前)氏、本多氏、榊原氏松平(越前)氏と変わり、酒井氏が寛延2年(1749)入封して明治維新を迎えました。 現在、大天守と三つの小天守、これらを結ぶ渡櫓(以上「国宝」)をはじめ、化粧櫓など櫓27棟、門15棟、土塀約1000m(以上「重要文化財」)の建造物と、内濠、中濠の大部分が残っており、中濠以内は特別史跡に指定されています。 その秀麗古雅な天守閣群、丘陵と調和したすばらしい景観は、まさに世界的名城です。 テレビ(暴連坊将軍)で見たとおりで行ってみる価値あり。 (ちょっと時代錯誤?はじめて行った当時はonairしていなかったかな!!) | |
| 国宝姫路城 平成12年8月7日現在 | |
| ◇交通 | JR姫路駅より徒歩約15分(バスの便あり) |
| ◇開館時間 | 午前9時〜午後5時まで (但し6月〜8月:午前9時〜午後6時まで) (入城は各1時間前まで) |
| ◇休城日 | 12月29日〜12月31日 |
| ◇入城料 | 大人 600円 |
| ◇見学所要時間 | 約1時間30分 |
| ◇お問合せ |
兵庫県姫路市本町68番地 TEL:(0792)85-1146 |