彦根城(別名・金亀城)
―― 築城以来井伊氏十四代の息吹を残す三重天守 ――
関ヶ原合戦に功のあった井伊直政は、慶長6年(1601)徳川家康から近江国石田三成の旧領十八万石を与えられた。 上州(群馬県)の高崎三万石から佐和山城に入った直政であったが、城は落城した惨状のままで、とても使えたものではなかった。しかも、修築しようにも中世の山城で交通が不便なうえ、戦闘形態が鉄砲主体の時期には不適当な城だったので、新たに近世城郭の建設を、西の湖畔の磯山に築城しようとした。 しかし、直政は、関ヶ原の合戦時島津勢を追撃した時の鉄砲傷が原因で慶長7年に病没し、かわって嫡男の直継(のちの直勝)が家督を継ぎ、父・直政の意志を継いで築城にあたった。
彦根は交通の要衝で、かつ大坂にいまだ歴然たる権力を保持している豊臣氏や他の西国大名に対しての防衛ラインという戦略的な地でもあった。そのため家康は、伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の七ヶ国十二大名に強力を命じるなど、一大名の築城ではなく幕府の総力をあげた国家的事業となった。 築城開始が慶長8年(1603)(9年説も)で、天守は二年足らずで完成したが、さらに元和2年(1616)から表御前の造営をはじめとする城郭改造や外郭の拡張整備等の第二期の工事を行なって、三代目直孝の元和八年(1622)ようやく完成という二十年の歳月をかけた大工事だった。
ゆえにこの時、天守は近くの京極高次の大津の城から移されたと伝えられ、所在が正しければ天正年間(1573〜92)の初め大津に創築されたことになる。 その他、西の丸三重櫓は浅井長政の小谷城から、天秤櫓は豊臣秀吉の長浜城から、太鼓門は石田三成の佐和山城からといったように、各所の城から運び込んで移築されたといわれる。 城地の亀山(彦根山)は琵琶湖にのぞむ独立した小丘で高さ136m、山上に本丸を置き、その西北一段低く西の丸を設け、本丸の東南には空堀をへて太鼓丸、鐘の丸の郭を造成した。 山麓に主郭、三の丸を造り、堀には湖の水を引き入れた。主郭には御殿があり、ここが藩主の住まいと政庁だった。 現在の天守は三重三階で小規模であるが、初層の四方にそれぞれ二つずつ切妻破風を、上層には唐破風をかけ、最上層の窓を火頭窓にするなど、変化に富んだ姿をみせている。
万延元年(1860)3月3日に十三代藩主で大老職にあった井伊直弼が水戸藩士などに襲撃斬殺されたため幕府としても仕方なく十万石の減封処分とした。ために幕末には二十五万石の石高であった。 井伊氏によって築かれた彦根城は、そののちの明治維新を迎え、廃藩置県まで一度の領主替えもなく井伊氏十四代が在城し続けた。 新政府の廃城令によって、姿を消していく城のなかで、今なおその雄姿を見ることの出来るのは、明治11年の廃城撤去の寸前に大隈重信が視察し、その名城の消失を惜しみ明治天皇に、その旨を奏上したことにあった。
白壁の櫓や天守閣、お堀の全景は、井伊直弼が出てくるNHKの大河ドラマなどでお馴染み。天守閣の中も歴史を感じさせる落ち着きがあり。 西の丸三重櫓から山崎郭、黒門方面は人手も少なく、彼女とゆっくり散策も。 時間があれば、ハスの花の咲く内堀や中堀の周辺を一周するのも、何か新たな発見があってよいですよ。特に中堀の際まで立ち並ぶ新築の民家には、話には聞いていましたが、他にはない驚きがあります。 | ||||||||||
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| 国宝彦根城 平成16年8月28日時点 | |
| ◇交通 | JR彦根駅より城入口まで徒歩約15分 (彦根ご城下巡回バス:観光用市内循環の懐かしいボンネットバス) ( 運行期間:4月1日〜4月18日の毎日、4月30日〜11月30日の土曜・日曜・祝日 ) ( 料金:1日券500円、一乗車200円、12歳以下は半額 ) ( ※ 巡回バス1日券を提示すると彦根城入場券などが1割引になる特典有り ) |
| ◇開館時間 | 午前8時30分〜午後5時まで (6月〜8月:午前9時〜午後6時まで) (入城は各1時間前まで) |
| ◇休館日 | 年中無休 |
| ◇入場料 | 彦根城・玄宮園観覧料 大人 500円、小人 200円 |
| ◇お問い合わせ |
・彦根城 TEL:0749-22-2742 ・彦根観光協会 TEL:0749-23-0001 ・彦根市観光案内所 TEL:0749-22-2954 |
| 参考文献 | ・現地で入手のパンフレット、及び、解説板 ・「図説日本の名城」(河出書房新社) ・「日本の城[戦国〜江戸]編」完成された城郭の構造(世界文化社) ・「日本名城の旅」(ゼンリン) |