織田信長によって天正4年(1576)から三年半の歳月を費やして築いた安土城は、京都と北陸・美濃を結ぶ交通の要衝の地で、当時、西、北、東の三方を琵琶湖に囲まれた標高200m程の安土山に築かれ、金、黒、白、青、朱の五色に輝く壮麗な天守は、街道を行き交う人々に威容を誇っていたことであろう。
高さ20余mの石垣の上に聳え立つ七層七重の天守は、武将の威光を天下に示すための手段として築かれた日本ではじめての七層建築で、天守の先駆をなすもので、近世の天守は安土城に始まるといわれる。
山上の頂上に天守、御殿などがあり、山腹には配下の諸将の屋敷が構えられ、山麓に武家屋敷、町屋が造られた。
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天守は外観五重、内部は地階をいれて七階で、全体としては、御殿として用いられた1〜3階の上に、宗教建築色に濃い5階(八角堂)と6階(唐様仏堂形式)を載せた構造となっていた。(4階は屋根裏階)
外観は漆喰壁や腰板の白・黒、柱や勾欄の朱、瓦の金、青(4階の縁に描かれた龍の地の色か)の色で彩られ、各階内部は儒教や仏教・花鳥・動物などを画題とした金箔押しの障壁画ですべてが飾られており、まさに華麗・豪華な姿を現出していたと想像される。
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そのような華麗・豪華な安土城天守であったが、天正10年(1582)6月2日、信長が京、本能寺に倒れると、6月5日には信長を討った明智光秀が安土を占領し、6月15日には安土の建物が炎上した。
天守台跡には穴蔵を示すほぼ八角形の石垣が残り、その中には七尺(約2m)おきに配された礎石があって、天守のかっての規模を示している。
現在、その安土城跡の保存と活用を図るために、平成元年より20年計画で発掘調査と環境整備が進められ、大手道をはじめとする石垣群などが復元されつつあります。
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大手口からの大手道には、幅の広い石段が長く伸び、その両側には前田利家邸跡・羽柴秀吉邸跡等の石垣が広がり思わず圧倒されます。さらに天守台の大きさ、広さには、再度圧倒されます。
帰りには信長の館で5階・6階部分のみですが、原寸大で忠実に復元された天守等が見れると思っていたら、考古博物館・城郭資料館ともに月曜日で閉館にて見れず残念でした。
JR安土駅から安土山城まで徒歩約30分ですが、駅前の安土駅前レンタサイクル高嶋さん(рO748−46-3266)では、自転車を借り(1日500円、そこで+100円で荷物預けて)、約10分でたどり着く田んぼ道を横切る近道を教えてくれますよ。
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