
赤穂城のある城地は室町時代には赤松満祐の一族岡豊前守が居館を築き刈屋城を称した。
天正年間(1573〜91)には宇喜多秀家が支城を築いた。
関ヶ原の戦いで宇喜多氏が滅びると姫路に入った池田輝政の領となり城代が置かれた。
元和5年(1615)輝政の五男政綱が五万五千石で分封された。
正保2年(1645)常陸笠間から浅野長直が転封されると、特に幕府の許可を得て慶安元年(1648)から甲州流軍学者の近藤正純の設計により築城工事を起こした。築城途中で山鹿流軍学の祖山鹿素行の意見も取り入れたため、二つの軍学を実践した近世城郭となった。完成は13年後の寛文元年(1661)である。

千種川西岸に位置する海城で、本丸・二の丸とも三角形に突出した変形の曲輪をもち、このことが攻撃の優位性・龍城の堅固さを高める工夫として名城と謳われる由縁となった。
元禄14年(1701)浅野長矩が江戸城松の廊下で刃傷事件を起こしたため浅野家五万三千五百石は3代57年で断絶、次の永井直政は5年で転封。
宝永3年(1706)に備中江原から森長直が二万石で入封し、以来明治維新まで森氏11代が165年間城主をつとめた。
城は、明治18年(1885)に破壊されたが、昭和30年(1955)に堀の一部と大手門、隅櫓、城壁100間を復元された。

昭和57年それまであった赤穂高等学校の校舎が城跡から取払われ、天守台(天守閣はなかった)が残る本丸跡も発掘調査が進められ、庭園や御殿の間取りもよくわかるように整備されている。
発掘調査中の場所や大手門そばでは復元工事も進んでいました。
大手門をくぐり、大石邸長屋門前をとおって、天守台が残る本丸跡までかなりの距離があり、本丸内の庭園、御殿の間取りからその昔の城のイメージを想像してみましょう。
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