小机城址(別名・飯田、松小屋城)

―― 太田道灌率いる上杉軍の攻撃に落城した戦国の城 ――

小高い丘の小机城と案内標識
小高い丘の小机城と案内標識
本丸にある小机城址碑
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本丸にある小机城址碑
 小机の地は多摩川以南の南武蔵の拠点にあり、築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、このあたりがひらけた十二世紀以降ではないかと思われます。その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、西方には、その支配下の榎下城があったことから、それとかかわりのある城と思われます。

 文明4年(1472)、関東管領山内上杉氏の家宰職の相続をめぐり、山内上杉家の家臣長尾景春が武蔵鉢形城で挙兵し、反乱を起した時、当時扇谷上杉氏家宰職の太田道灌は、景春一党の拠点である石神井、練馬、小磯、小沢の各城を攻め落し、矢野兵庫助、小机昌安の立て篭もる小机城を、城北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ子橋附近)に帯陣し、包囲するに及んだ。翌5年、堅固だった小机城は、二ヶ月間に及ぶ篭城戦の末に攻め落とされ、その後、上杉氏も北条早雲に追われ、小机の地は小田原北条の領地となり、小机城は四十余年間廃城となっていました。

二の丸と桜
二の丸と桜
 
二の丸と櫓台土塁
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二の丸と櫓台土塁
 
 北条氏の時代には北条氏秀らが在城し、「小机衆」と呼ばれる軍団を編成、武蔵南端の支配の中心で、それなりに有名な城でもありますが、そのわりにはあまり大きな城ではありませんでした。ただ、土塁や空堀には、北条流らしい築城術が随所に見られます。
 大永4年(1524)一族の北条氏尭の城となり、笠原越前守信為を城代として再興しました。小机の地は、地理的に、江戸、玉縄、榎下など諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果たすことになります。

 豊臣秀吉が小田原城を攻め落し、天正18年(1590)小田原北条氏が亡び、四代目城主の野次平衛重政が徳川氏の家臣として200名の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。

 小机城の縄張は、半島形に突出た丘陵の上部を大きく平らに削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築きます。
本丸の二の丸方面とその土手
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本丸の二の丸方面とその土手
二の丸の井楼跡
二の丸の井楼跡
 また、城郭全体を二重の土塁を空堀でぐるりとめぐらす縄張で後北条氏特有の築城法と言えます。類例より後北条、後半の築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で県下では、茅ヶ崎城も典型といえます。

 現在の「小机城址市民の森」は、その名の通り小机城の遺構の残る城山と呼ばれる標高40メートル丘陵を「市民の森」として整備したもので、4.5ヘクタールの広さがあり、城跡の南側を横浜線のトンネルが通り、丘陵の西側の「富士仙元」をえぐるように通っている第三京浜によって西側部分は破壊されてしまっているが、本丸跡など主要部分はほぼ完全に残っている。

 散策路は、本丸跡や二の丸跡、土塁跡、空堀跡などの小机城の遺構が残る中を辿り、要所要所に説明のための案内板も立てられている。毎年四月には「小机城址祭り」も開催され、地元の人々には憩いの場として親しまれている。
空堀を埋める竹林
本丸の二の丸方面とその土手
空堀沿いの竹林遊歩道
空堀沿いの竹林遊歩道


 小机城は、JR横浜線小机駅からは徒歩15分程度。城址全体は30分もあれば廻りきることはできます。公園として整備されておりお薦めのお城ですが、城址のド真中を第三京浜がぶち抜いています。

小机城址市民の森の図へ

 土塁・空堀・曲輪跡などは良く残っていて、特に空堀は必見です。竹林も整理されて、竹の子を取るな!の標識はほのぼのとしてよいかも。

  小机城址市民の森                         平成16年3月28日時点  
◇交通・JR横浜線小机駅から徒歩15分、駐車場エリアなし。
・横浜駅西口から、市営バス市が尾行(3系統)中山駅行(39系統)で小机辻下車徒歩10分
◇お問合せ ・横浜市緑政局緑政部緑政課      TEL:045-671-2624

参考文献現地解説板、及び、「日本城郭事典」(大類伸監修 秋田書店)
参考サイト埋もれた古城

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