豊田城

―― 風雲児平将門を生んだ豊田郷の城 ――

北北西方面からの豊田城遠景
北北西方面からの豊田城遠景
 
 
展示室と図書館からなる地域交流センター(豊田城)正面
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展示室と図書館からなる
地域交流センター(豊田城)正面
 今を去ること千五十余年の昔、豊田郷の生んだ風雲児平将門は、天慶の乱により、天慶3年(940)悲運の生涯を閉じてから常総の地は平貞盛・藤原秀郷の領地となったが、貞盛は伊勢の国に遷り、伊勢平氏の祖となった。
 当地方は、貞盛の弟繁盛の支配する処となり、四代後の常陸大掾平重幹の第三子政幹が赤須四郎と名乗り下総豊田郷に住した。

 前九年の役ににおいて、源頼義・義家父子は陸奥の安倍頼時追討の命を受けて北上する。赤須四郎は、豊田郷兵を率いてその軍列に加わり、阿武隈川一番乗りをはじめ、衣川の戦い等に数々の功をあげた。
 役後、戦功によって後冷泉天皇より鎮守府副将軍に任ぜられ、神旗(蟠龍旗)と豊田・岡田・猿島の三郡を下賜された。これにより名を豊田四郎将基と改め、若宮戸に居を構え、常総の山野に武威を張った。
 以来二十代五百二十余年の長い間、中世・戦国時代にかけて、この地は豊田氏の本拠地となった。

石下総合福祉センター方面からの豊田城(西面)
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石下総合福祉センター方面からの
豊田城(西面)

 
 
駐車場からの豊田城(南西面)
駐車場からの豊田城(南西面)
 
 
 戦国時代には、下妻多賀谷氏との攻防が激しく、この間、十七代元豊は三男家基に家宝の甲冑を与えて現糸繰川右岸の袋畑に封じ、前衛第一陣とした。また、十九代政親は石毛城を築き、二男の次郎政重を石毛に分封し、第二陣とした。更に、第三陣を館出(石下高校付近)の地に配して侵攻に備えた。しかし豊田氏必死の防戦にもかかわらず、天正3年(1575)多賀谷氏に滅ぼされた。

 豊田氏が下妻の多賀谷氏に滅ぼされたあと、石下地方は多賀谷氏六万石の領地となりました。しかし、慶長6年(1601)に多賀谷氏が改易となり、慶長8年(1603)江戸幕府成立後、当地は幕府の直轄領あるいは旗本の知行地に組み入れられた。その後、明治維新により幕府が崩壊し新政府による知県事の管轄となった。

 常総市新石下(旧石下町)は、茨城県南西部にあり、東に小貝川、西に飯沼川があり、中央を北から南に流れる鬼怒川によって、町は東西に分かれています。
 はじめ石下は「イシケ」と呼ばれ、「イシ」は砂河原、「ケ」は作物・食物の意味があり、農耕に適した土地であったことが考えられます。
国道294号線沿いの櫓風倉庫
国道294号線沿いの櫓風倉庫
 
 
二階櫓風倉庫
二階櫓風倉庫
 
 5世紀頃から「伊師毛」と記され、和銅6年(713)に「石毛」に変わり、江戸時代の寛永7年(1630)の検地により「石下」と改められ、現在に至っています。

 地域交流センターは、別称を「豊田城」といいます。平安時代末期から戦国時代までこの地方を支配した垣武平氏一族の豊田氏が、東部に流れる小貝川べりに城を築き、豊田城と呼ばれていたために命名されたものです。
 当時は、このような天守閣(高さ48.5m)ではなく、カヤ葺きで小貝川の水を要塞としたものであろうと思われます。

 歴史上の豊田城跡は現在の小貝川の河川敷下になっているそうですが、それにしても五層七階建ての模擬天守閣はすごいです。あきれはてて登城する気もおこりませんが・・・。
 また廻りにある倉庫なのか櫓風の建物が点在するのも史実とは全くかけ離れてすごいです。

  地域交流センター(豊田城)                      平成18年5月1日時点  
◇交通・関東鉄道常総線石下駅下車 徒歩10分
・常磐自動車道 谷和原インターより25分
・常磐自動車道 土浦北インターより30分
◇開館時間 ・午前9時から午後4時30分 (但し、入館は午後4時まで)   
◇休館日 ・毎週月曜日(祝祭日の場合は、翌日)
・年末年始(12月28日〜1月4日)
◇入館料 ・一般    :400円
・小・中学生:200円
◇問い合わせ ・地域交流センター(豊田城)  TEL:0297-42-0169
    〒300-2706 常総市新石下2010
常総市役所ホームページ   TEL:0297-23-2111
    〒303-8501 茨城県常総市水海道諏訪町3222-3

参考文献・地域交流センター(豊田城)建設の碑より

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