多賀谷城跡(別名・下妻城)

―― 再三の北条氏の来襲にも耐えた城 ――

多賀谷城跡公園とその石碑
多賀谷城跡公園とその石碑
多賀谷城本丸跡の土盛
多賀谷城本丸跡の土盛
 多賀谷城は、中世、多賀谷氏歴代の居城となっていた平城跡で、下妻城ともいった。
 城は享徳3年(1454)、武州埼玉郡葛西の領主多賀谷左近太夫氏家が、古河公方足利成氏の命で上杉憲忠の首級を上げた功により、下妻の荘と関郡を給せられ、この地に築城したのが始めといわれる。

 以後、多賀谷氏は小田原北条氏政勢の再三の来襲を撃退するなど七代にわたり147年間下妻城主として居城して、常総地方に栄えていた。

 しかし、慶長5年(1600)関ヶ原の戦が起き、七代重経は佐竹氏とともに西軍に心を寄せ、徳川家康の再三の誘いにも出陣しなかった。この戦いで家康に憎まれ、石田三成に組した理由で、慶長6年(1601)2月城主追放、城破却となり、当地を去り、多賀谷氏は滅びた。
多賀谷城本丸跡と標識
多賀谷城本丸跡と標識
多賀谷氏遺跡の建つ多賀谷城本丸跡
多賀谷氏遺跡の建つ本丸跡
 城主追放の時奥方始め姫奥女中達は行末を案じてある者は懐剣でのどを突き、ある者は館沼に身を投げた。領民はこれを哀れ遺体をかき集め三の丸の一画に合葬したそれが今に伝えられる美女塚である。

 多賀谷氏の跡は、一時徳川頼房が居城するすることとなり、頼房が慶長14年に水戸へ移ると、元和元年(1615)から同5年まで松平忠昌・松平定綱が領した。
 のち天領とされたが、正徳2年(1712)井上正長が一万石で封ぜられ、以後井上氏14代の陣屋として明治に至った。

 現在城跡は、市街地化して土塁・堀の一部が現存するほかは、ほとんど見るべき遺構は残されていない。現在本丸跡にある公園の中にある多賀谷氏遺跡碑は旧主をしたう家臣子孫が明治23年12月に建立したものである。

本丸跡隣の広場
本丸跡隣の広場
本丸跡に建つ多賀谷氏遺跡碑
本丸跡に建つ多賀谷氏遺跡碑

 県道357号線を北上し、下妻市街地に入り下妻市役所前なのでそろそろかなと迷いながらも、適当な路地に入ったところが、多賀谷城址公園=下妻城址でした。

 小高い土盛が二つありましたが、本丸広場はかなり広く、サッカーにいそしむ・・・人の一団がいました。本当は子供が遊ぶ公園では???

 多賀谷城跡公園(下妻城跡)               平成16年5月3日時点  
◇交通・関東鉄道常総線下妻駅から徒歩5分
◇問い合わせ ・下妻市商工観光課    TEL:0296-43-2111(代)

参考文献・現地解説板
・「郷土資料事典−観光と旅−県別シリーズ・茨城県」(人文社)

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