白井城址
―― 利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地先端に築かれた城 ――
全体が三角形に尾近い構造で、城の中心である本丸は吾妻川沿いにあって、西側は断崖に面しており、それ以外の方角は高さ3〜4mの土塁に囲まれている。 北側には枡形門があり、太田道灌が指導したとの伝承が残る石垣が現存する。 本丸を出て深い堀を土橋で渡ると北へ二ノ丸・三ノ丸と続き、その間にも堀が残っている。 三ノ丸の外側には北の守りとして北郭・金毘羅郭があり、本丸の南東にはささ郭・南郭・新郭が連なっている。 さらに城域には、それぞれ北遠構・東遠構の堀があって、総郭(城下)を囲む構造になっていた。 なお、城の護りの一部として、玄棟院(曹洞宗)・源空寺(浄土宗)をはじめとする大小の寺院が周囲に配置されている。 また、白井城の南東には、仁居谷城があり、堀跡等も確認されていて、両者の関係が注目される。
景仲は、月江正文禅師を開山とする雙林時(曹洞宗)や、「白井の聖堂」と呼ばれる学問所を開いたことでも知られている。 その子孫も白井城やその周辺をめぐる戦国の攻防の中にそれぞれの名を残したが、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家に攻略されて開城し、戦国の城としての役割を終えた。 その後は、徳川家康の関東入りにしたがい本多広孝・康重が城主(二万石、のち五万石)となり、この頃に現在の姿に整備されたと考えられる。 康重の岡崎移封後は、戸田康長・井伊直孝・西尾忠永・本多紀貞と続くが、寛永元年(1624)紀貞の病没とともに廃城となった。 これ以後の経過は明らかではないが、少なくとも明治時代以降農地化されていたと思われ、昭和40年代の土地改良事業においても大幅な地形の改変はなく、城や土塁など城としての地形が良く残っている。
渋川市街から国道17号を北上し、利根川と吾妻川の合流点の橋に差し掛かり、橋の勾配を登りきってすぐ左側、宿場町の雰囲気を残す白井のはずれの崖の上に城はあります。 城域の殆どは蒟蒻畑の農地になっていますが、それでも本丸周辺の土塁や堀、虎口の石垣などは明瞭に残っています。 それにしても、本丸跡に家庭菜園風の畑を作っている叔父さんがいましたが、個人所有の土地なのでしょうか。 宿場町白井の散策も楽しめます。 |
| 本丸 | ||
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| 本丸全景(北方面)と東側土塁 | ||
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| 本丸南側土塁 | 本丸跡に家庭菜園風の畑を 作っている叔父さん | |
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| 本丸東側の土塁 | 本丸南側の土塁 (左下は笹郭) | 本丸南下の笹郭 |
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| 本丸跡(北側)と北側土塁 | ||
| 本丸と二ノ丸との間の空堀 | ||
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| 本丸への土橋からの 空堀(本丸の右側) | 本丸と二ノ丸との間の 土橋と空堀 | |
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| 本丸からの二ノ丸との間の 空堀(東側) | 本丸と二ノ丸との間の 空堀(北側) | 本丸と二ノ丸との間の 空堀(土橋側) |
| 二ノ丸 | ||
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| 蒟蒻畑の広がる二ノ丸 | 二ノ丸の土塁(東方面) | 二ノ丸と三ノ丸の間の空堀 |
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| 二ノ丸からの 三ノ丸と間の空堀 | 二ノ丸からの 三ノ丸と間の空堀 | 二ノ丸からの南郭方面 |
| 北郭の端に建つ城山不動尊 | ||
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| 宿場町白井の街並 | ||
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| 白井宿の周辺案内板 | 白井宿の街並 | 白井宿街道の道 |
| 白井城址 平成19年8月12日時点 | |
| ◇交通 |
・関越自動車道「渋川伊香保」ICより、国道17号を北上し、 利根川と吾妻川の合流点の橋を過ぎてすぐに左折、宿場町今井の左崖の上へ、車20分 |
| ◇問い合わせ |
・渋川市子持総合支所子持の観光情報 〒377-0292 群馬県渋川市吹屋384番地 Tel:0279-24-1211 |
| 参考文献 | 現地解説板 |