関城跡

―― 三方を沼に囲まれ友軍の城を望む要害の城 ――
戦死した関城主父子の墓と城祉碑
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戦死した関城主父子の墓と城祉碑
説明板のある関城跡と碑
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説明板のある関城跡と碑

 関城はかって南北朝対立争乱の時代小田城などとともに常陸国内宮方、南朝方の拠点として知られる国指定の史跡で、騰波江(とばのえ)駅の西1kmのところにあります。

 ここは東西南の三方が大宝沼に囲まれ、北に壕を掘り前面大宝沼のかなたに友軍の城、多賀谷城(別名下妻城)を望む要害の処であり、東の空に筑波の紫峰を望み、かって南北両軍が血を流した古戦場とはどうしても思われないような地でもあります。

 また、この地は興国2年(1341)小田城から移った南朝の功臣北畠親房が、同4年城の陥落前まで留まって、小田城で書いた日本史「神皇正統記」に筆を加えて完成したことでも有名です。

関館八幡宮そばの土手
関館八幡宮そばの土手
小高い丘の関城跡遠景
小高い丘の関城跡遠景
 関城は、南北朝争乱のとき、関宗祐父子が南2.5kmのところにある大宝城と呼応して、高師冬の軍を迎えうち、僅か300名の劣勢で以後2年間も喰いとめたところとしても知られている。
 攻めあぐねた北朝方の高師冬は、関城の物見櫓を攻め落すために、窮余の策として坑道を掘って城へ近づこうとしました。師冬勢が城の東北部から城に向って坑道を掘りはじめ、これに応じ城兵も外に向って掘り進めました。しかし師冬勢の坑道は地盤が軟弱だったために落盤し、双方共坑道戦は中止したといわれています。

 この坑道跡は大正9年(1920)9月、関館の青年二名が関館八幡宮西部里道の側面に偶然発見して世に知られるようになったもので、日本三坑道の一つとして戦史上貴重な価値を有するものです。坑道の形式は、無枠、アーチ型に高さ約2m、幅1mに短柄鍬で砿夫が掘ったものです。

坑道跡近くの関館八幡宮
坑道跡近くの関館八幡宮
関館八幡宮西部里道の側面にある坑道跡
関館八幡宮西部里道の
側面にある坑道跡
 今日、関館一帯8.5ヘクタールの城域には、当時の土塁の一部が残り、関城と運命を共にして戦死した城主関宗祐・宗政父子の墓や、北朝方の武将で関城攻撃で戦死した結城直朝の墓があります。

 県道357号線から案内に従い、途中道路の右側にあった"左折で関城跡へ"の道標に迷いながらもたどり着くと、こんもりした竹林の中に関城祉の石碑と説明板があります。

 近くの700年近くも残る坑道跡の穴はすごいですね。

 関城跡                         平成16年5月3日時点  
◇交通・関東鉄道・常総線騰波江(とばのえ)駅から徒歩25分
◇問い合わせ ・関城町産業課      TEL:0296-37-6111

参考文献・現地解説板
・「郷土資料事典−観光と旅−県別シリーズ・茨城県」(人文社)

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