佐貫城址(別名・亀城)

―― 古くから西上総要衝の城 ――

石垣による虎口遺構である大手櫓門跡
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石垣による虎口遺構である
大手櫓門跡

 
二の丸と本丸をつなぐ土橋
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二の丸と本丸をつなぐ土橋
 
 佐貫城(亀城)は、室町時代にさかのぼり、天安年間に長尾氏、応永年間に武田氏の築城説あり。
 その後里見、武田、朝倉、加藤、大河内の諸氏城主となったといわれる。

 徳川家康の江戸入封後、天正年間に内藤氏が三万石をもって佐貫城主となり近世的城郭に大修築した。
 内藤氏の後、元和・寛永年間に松平氏が城主となった後、一時廃城になり、元禄元年(1688)に柳沢保明が入城するが、元禄7年(1694)川越に転封になると、再び廃城となる。
 宝永7年(1710)阿部正鎮が三河刈谷より一万六千石で入封し、佐貫城を再築し、その後明治維新まで続き、明治4年(1871)の廃藩置県によって廃城となる。

 現在、本丸や二の丸、三の丸の各曲輪が歴然と残っているが、本丸と二の丸は武田・里見氏時代の中世城郭をそのまま残したものと思われ、空堀と土塁だけの簡単な構造であった。
搦手附近にわずかに残る石積み
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搦手附近にわずかに残る石積み
 
黒部谷方面から島屋敷に抜ける尾根にある垂直な堀切
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黒部谷方面から島屋敷に抜ける
尾根にある垂直な堀切

 

 江戸時代の佐貫藩庁の中心は三の丸であり、大手門の石垣や、みごとな曲線を描く曲輪、櫓台などがみられるが、江戸時代の遺構だろう。
 石垣は大手門のみで、他はことごとく土塁である点など、まだ中世式城郭の特徴を残している。

( 佐貫城_縄張り図へ (25kB) )

 佐貫城の大手口にそそり立つ大手櫓門跡の石積とその土塁は大きく、立派で、千葉県内では唯一の石垣による虎口遺構だそうです。
 本丸と二の丸を結ぶ土橋とその周りの大規模な堀はかなりの深さです。
 搦め手側にも、石積や切り通し、主郭東物見附近の垂直削崖などの遺構があり、見ごたえがあります。

大手櫓門跡と三の丸
佐貫城址入口碑と案内板
ダブルクリックで拡大図(94kB)へ 佐貫城址入口碑と案内板
三の丸跡からの大手櫓門跡の虎口遺構
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佐貫城址入口碑と案内板と佐貫城址入口
 
三の丸跡からの
大手櫓門跡の虎口遺構
三の丸跡と碑 三の丸から二の丸への大手道 三の丸跡
三の丸跡と碑三の丸から二の丸への大手道三の丸跡

二の丸
二の丸へ向かう大手道最初の堀切 二の丸へ向かう大手道の切通しのような虎口
ダブルクリックで拡大図(87kB)へ 二の丸跡
二の丸へ向かう大手道
最初の堀切
二の丸へ向かう大手道の
切通しのような虎口
二の丸跡
 
二の丸跡 二の丸跡からの土橋方面 土橋からの二の丸跡
二の丸跡二の丸跡からの土橋方面土橋からの二の丸跡

本丸と堀
かなり広い本丸跡 本丸からの西物見台土塁 本丸最高所の西物見台跡
かなり広い本丸跡本丸からの西物見台土塁本丸最高所の西物見台跡
水のたまった後が残る土橋横の本丸空堀 本丸東物見跡 本丸と東物見台跡との道
水のたまった後が残る
土橋横の本丸空堀
本丸東物見跡
 
本丸と東物見台跡との道

搦め手口
東物見台からの国道127号が走る谷戸方面 搦め手口への切通し通路を兼ねた堀
ダブルクリックで拡大図(83kB)へ 島屋敷跡からの搦め手口方面
東物見台からの搦め手口側の
国道127号が走る谷戸方面
搦め手口への
切通し通路を兼ねた堀
島屋敷跡からの
搦め手口方面

  佐貫城址                                平成19年4月29日時点  
◇交通・JR内房線佐貫駅より東へ約1.8km直進
◇問い合わせ産業観光課   Tel 0465-74-2111(代表)

参考文献・現地解説板
・「日本城郭事典」(大類伸監修:秋田書店 発行)

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