
登り口付近の切通しのような道
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小櫃川西岸の城跡遠謀
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築城時期は不明ですが、天文2年(1533)にはすでに、里見義豊の家臣の宮本宮内・鎌田源六と称する者が居を構えていることから、城の築造は、それ以前と考えられる。
里見義堯の時代になってからは、一時、義堯の嫡子義弘も在城したと伝えられている。
その後は、大野山城守・大野駿河守などの里見氏の武将の居城となり、天正18年(1590)の豊臣氏の小田原攻めに伴う国替えのため廃城となった。
城の遺構としては、登城の台を中心に各施設が置かれている。
郭内は、高さ約3mの二条の台と呼ばれる長方形の土壇と、東地区にある高さ1m程度の土壇がある。
また、久留里線の線路をはさんだ対岸の丘陵上には物見台と呼ばれるところもある。

ちょっと登った所にある馬蹄段状の 小さな削平地を持つ腰曲輪
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小さな祠が建つ主郭
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大戸城は、三方を小櫃川の急流が裾を洗い、深く削られた崖が南北方向に突き出した半島状台地となっていて、久留里街道を監視する絶好の場所にありますが、その登り口は、チョッと判りにくいです。
何度も目の前を行き来しましたが、僅かな空き地と畑のある処の小高い山が大戸城でした。
登り口付近の切通しのような道があり、ちょっと登ると腰曲輪があり、そこから急な登り道(崖と言っても良いか)を登ると祠のある主郭があります。
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