小田原城(別名・小峯城) 【 平成13年(2001)版 】

―― 秀吉を阻んだ総構えの巨城 ――
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小田原城天守閣と付け櫓への登り石段
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天守閣と付け櫓への登り石段
 
本丸広場入場券売り場前からの小田原城天守閣と付け櫓
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  本丸広場入場券売り場前からの
天守閣と付け櫓
 小田原城は、治承4年(1180)源頼朝が伊豆に挙兵以来、戦功のあった、伊豆土肥郷の豪族であった土肥実平の一族、小早川遠平が現在の小田原城の少し北の小峰山に居館を構えた。これが小田原城の始まりといわれています。

 応永23年(1416)、上杉禅秀の乱が起り、これに味方した土肥一族は失脚し、小田原には上杉憲方の家臣、大森頼顕が入り、その子頼春のとき城郭を整備した。
 明応4年(1495)、伊豆韮山に勢力を得た伊勢新九朗(のちの北条早雲)は、牛の角にたいまつを付け夜襲した「火牛の計」という中国の戦法を用いた奇策にて小田原に攻め入ると大森氏から小田原城を奪い、ここを本拠地としてその勢力を関東に伸ばした。
 後北条氏は早雲ののち北条氏綱、氏康、氏政、氏直と五代にわたって関東に君臨し、その石高は250万石、多くの家臣、被官の大名を有し、その支城は100余といわれた。

お堀端通りからの学び橋と二の丸隅櫓
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お堀端通りからの
学び橋と二の丸隅櫓

 
三の丸跡からの二の丸隅櫓
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三の丸跡からの二の丸隅櫓
 
 
 後北条氏の小田原城はその当時としては、というよりは日本としては珍しく、城郭都市的な構想をもって城下町全体を防備する構築物を備えていた。
 事実、永禄4年(1561)には上杉謙信九万六千の大軍を退け、また、永禄12年(1569)には武田信玄二万五千の大軍を撃退し、難攻不落の名城であり、容易に侵入を許さなかった。

 さらに豊臣秀吉の来攻に備えて、天正15年(1587)から修築と拡張に力を注ぎ、三の丸外郭に総延長12kmに及ぶ土塁と空堀による壮大な総構えを築いた。天守閣は、五代目氏直のときに初めて築かれたものです。

 天正18年(1590)に押し寄せた秀吉軍三十万の大軍もさすがに攻めあぐね、小田原篭城戦は100日に及び、その間北条氏方は城内にて、あの有名な小田原評定を繰りかえし、最後は秀吉方の調略によって、小田原城を開城させ、後北条氏は滅亡した。
御感の藤方面からの小田原城二の丸銅門
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御感の藤方面からの
二の丸銅門

 
小田原城二の丸銅門と住吉橋
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二の丸銅門と住吉橋
 

 小田原討伐ののち、関東に封ぜられた徳川家康は、居館を江戸と定め、小田原城の総構えの破却を命じ、城の規模は三の丸以内に著しく縮小されました。
 小田原城は、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担って、徳川家康の忠臣の大久保氏四万五千石、城代時代、稲葉氏・阿部氏と変遷したのち、貞享3年(1686)再入封した大久保氏から十代を経て明治維新を迎えました。

 建築物については後北条氏時代は定かではないが、近世小田原城には三重天守が築かれた。
 この天守は元禄16年(1703)の大地震で崩壊し、宝永3年(1706)再建された。
 以後、幾度か大地震による被害を受けたが、その都度修復されて明治維新まで存続しましたが、藩籍奉還にともない廃城となり、明治3年(1870)11月にほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。
二の丸から本丸への小田原城常盤木門
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二の丸から本丸への常盤木門
 
二の丸からの
小田原城常盤木門下土塁と堀
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二の丸からの
常盤木門下土塁と堀

 現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と大外郭の一部が、国の史跡に指定されています。
 また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、城跡に建つ天守閣は、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、昭和35年(1960)5月25日に、小田原市が市制施行20周年事業として復元、築造したもので、鉄筋コンクリート造り、続やぐら付きの複合三重式・地下一階地上四階・総面積1.822平方メートルで、内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっています
 本体高さは鯱を合わせて30mで、標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。

 常盤木門は、本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていました。
内仕切門をくぐった桝形内からの
小田原城二の丸銅門(櫓門)
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内仕切門をくぐった桝形内からの
二の丸銅門(櫓門)

 
二の丸内からの
小田原城二の丸銅門(裏側)
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二の丸内からの
二の丸銅門(裏側)

 
 古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。
 元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡り櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。
 現在の常盤木門は、市制30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので、昭和46年(1971)3月に完成しました。
 常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。

 銅門(あかがねもん)は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治3年(1970)の小田原廃城後、明治5年に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。
 往時は、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿や本丸、天守閣へと進むようになっていました。
 銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来します。
御感の藤前からの
小田原城二の丸堀と銅門
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御感の藤前からの
二の丸堀と銅門

 
小田原城二の丸堀そばの
大正天皇感嘆の「御感の藤」
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二の丸堀そばの
大正天皇感嘆の「御感の藤」

 
 現在の銅門は、昭和58年(1983)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたもので、石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されています。平成10年4月1日より一般公開されています

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 再興された銅(あかがね)門周りは整備され、天守閣内の展示物には、北条氏五代の繁栄の後と、豊臣秀吉の小田原城攻め等が。興味を引きます。
 また、小田原城歴史見聞館では小田原城の始まりから、現在に至るまでの歴史を、模型や映像で分かりやすく展示してあります。

 5月3日に行われる北条五代祭りの武者行列も必見です。
 天守閣の周りの動物園(象もいますよ。久々に行ったらライオンはいなくなっていました。えさ代が大変なのかな?)と遊園地は、近隣の子供たちにはよいのですが、観光客に若干興ざめかも。

  小田原城天守閣・歴史見聞館                     平成15年3月29日時点  
◇交通JR小田原駅東口より徒歩10分
◇開館時間 午前9時〜午後5時まで(入城は4時30分まで)
◇休館日12月29日〜翌1月1日
◇入場料・天守閣・見聞館共通料金   大人:600円、小・中学生:200円
・天守閣           大人:400円、小・中学生:150円
・見聞館           大人:300円、小・中学生:100円
 ※ 小田原市ホームページの小田原城の紹介のページに割引券(1割引き)があります。
◇問い合わせ  ・小田原城      TEL:0465-23-1373
・小田原市観光課  TEL:0465-33-1521
小田原市ホームページ小田原の名所・観光施設情報

参考文献 ・現地の解説板、現地入手のパンフレット
・図説 日本の名城 (平井聖・小室榮一編 河出書房発行)
・日本名城の旅(東日本編) (井上宗和執筆・撮影 ゼンリン発行)

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