小田城祉
―― 関東における南朝の中心となって活躍した小田氏350年間の居城 ――
知家は、常陸国の守護となり、建久4年(1193)には多家義幹を亡ぼし、、常陸国南部に勢力を広めた。 四代時知に至り小田氏を名乗るようになる。 鎌倉幕府が亡びると、七代の治久は新政府に参加し、南朝に味方した。 治久は延元3年(1338)に北畠親房を小田城に迎え、関東における南朝の中心となって活躍した。 親房は城中で「神皇正統記」「職原妙」を執筆した。 しかし高師冬に包囲され、翌年に治久は師冬に降り、親房は関城へ移った。 戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。
政景によって小田城は大規模に改修された。 慶長7年(1602)に佐竹氏は、秋田へ国替されて廃城になった。 小田城は、本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれた平城で、約21ヘクタールに及ぶ。 本丸部分の約2ヘクタール程を八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。 南北朝に入ってから、居館から防御のための城郭へと転化した。 戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。 更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知り得る姿になって完成する。 この城は平城として長所を十分発揮して巧妙に設計されている。 本丸と各郭は深い堀と高い土塁で囲まれ、重要な出入口には馬出しを設けて、直接侵入できないようにしてある。 郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。
[ 本丸中心を旧関東鉄道線路跡が通る小田城平面図 へ (40+56kB) ] 小田城は国指定史跡になっており、現在でも少なくとも三重の堀の跡が確認できる大規模な平城です。特に1郭(本丸)の東北端と東南端とには、高さ3mほどの高い土塁が素晴らしく、全体も広く見晴らせて、気持ちが良いです。 それにしても、かって関東鉄道の線路跡=今はサイクリングロードになっていますが、それが1郭を斜めど真ん中を横切っており、その爪あとは痛ましい限りです。 |
| < top へ > |
| < top へ > |
| 小田城祉 平成18年5月1日時点 | |
| ◇所在地 | ・茨城県つくば市小田 |
| ◇交通 |
・常磐自動車道土浦北ICから国道125号線(土浦北バイパス)を北西に向かい、 つくば市小田十字路を左折し、小田市街を入り、細い道を進み、 市立小田保育所を目指すと本丸跡入口へ |
| ◇駐車場 | ・市立小田保育所前の城址本丸跡前駐車場(それとも単なる空き地)?を利用 |
| ◇問い合わせ | ・つくば市経済部 観光物産課 TEL:029-836-1111 |
| 参考文献 | ・現地で入手のパンフレット、及び、解説板 |