前橋城址(別名・厩橋城)

―― 江戸を守る北関東のおさえとして、利根川を利用した要塞堅固の列郭式縄張の城 ――

群馬県庁前からの本丸土塁
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群馬県庁前からの
本丸土塁
群馬県警裏の公園から見た本丸土手
群馬県警裏の公園から見た
本丸土手
 前橋(厩橋)は、戦国群雄の争点となった城を原型として増補改修を重ね、小田原北条氏、平岩氏時代を経て、酒井忠世・忠清の代に総坪数15万坪の城郭として完成しました。

 城の中心は現在の群馬県庁のある所で、前橋城は、江戸を守る北関東のおさえとして、また利根川を利用した要塞堅固の列郭式(縦横方向に曲輪を並べた様式)の縄張りをもつ城として、宇都宮、川越と並んで関東の四名城の一つに数えられたと言われています。

 その築城は、15世紀末、箕輪長野氏一族の長野左衛門尉方業(固山宗賢)によるとされています。
 永禄3年(1560)年以降、十三回とも言われる上杉謙信の関東出陣の際の駐留拠点となり、永禄6年(1563)年には城代として越後北条城主・北条(きたじょう)高広を置いたが、天正7年(1579)、北条高広は、武田勝頼に攻められ、降伏開城した。
本丸北東角にある前橋城跡の碑入口
本丸北東角にある
前橋城跡の碑入口
群馬県警裏から見た本丸土手
群馬県警裏から見た
本丸土手

 天正10年(1582)、武田氏が織田信長によって滅ぶと、関東に赴任した滝川一益に開城。
 しかし、本能寺の変により信長が横死すると一益は、神流川合戦で北条氏邦に完敗し、関東から撤退、厩橋城と高広は小田原北条氏に降った。

 天正18年(1590)、小田原の役では、浅野長政らの軍勢に攻められ落城、小田原北条氏が滅ぶと徳川家康は、譜代の平岩親吉を厩橋に置いたが、平岩氏に嫡子なく、江戸期は酒井氏九代−松平氏を城主が変遷した。

 しかし、17世紀後半になると利根川の洪水により城の崩壊や地震、大火などの災害により城は著しく荒廃し、18世紀には酒井氏の転封、松平朝矩は幕府の許可を得て武蔵川越に移転し、明和6年(1769)に三重櫓の天守閣、大手門などが取り壊され、廃城となりました。前橋には川越の支藩として陣屋が置かれた。

前橋城跡の碑
前橋城跡の碑
 再築前橋城は、文久3年(1863)着工後、3年3ヶ月かかって慶応3年(1867)3月完成した。
 城の縄張りは、旧前橋城三ノ曲輪を本丸とした渦郭式(渦巻き状に曲輪が続く様式)で、城郭総坪数は旧前橋城に匹敵した。
群馬県警裏手の本丸土手北西面
群馬県警裏手の
本丸土手北西面
 城を取り巻く土塁の要所要所に砲台が設けられるなど、近代的な城郭であったが、完成を急ぐあまり城門や建物は簡素なものであった。

 しかし、城は城郭としての機能を果たさないまま明治維新を迎え、本丸御殿(後の群馬県庁舎)を残して取り壊された。現在、本丸跡が群馬県庁となっているが、現存する城の遺構は少ない。

( 渦巻き状の前橋城(別名・厩橋城)の縄張り図(35kB) )


 前橋城址へは、近隣では飛びぬけて立派なビルの群馬県庁を目指しましょう。それにしても立派なビルです。

三ノ丸外郭にあたる前橋公園の土塁と群馬県庁
三ノ丸外郭にあたる
前橋公園の土塁と群馬県庁
前橋公園内からの三ノ丸外郭土塁
前橋公園内からの
三ノ丸外郭土塁
 県庁は本丸跡にあり、その県庁北側、高浜門跡の付近の数少ない土塁の見事さは特筆モノで、高さ、幅、形とも、圧倒的な迫力があります。

 二ノ丸には前橋市役所、三ノ丸には地裁、三ノ丸外郭には前橋公園があり、主要城域はほとんど公共施設になっています。 なお、前橋公園の土塁上の鉢巻状の石垣は遺構ではありませんので注意です。

 県庁前の交差点から「県庁前通り」を東に200mほどの所に車橋門跡が残っているのですが、「県庁前通り」からは少し奥に入ったところにあるので、見過ごしてしましました。残念!!

  前橋城址                           平成17年9月10日時点  
◇交通 ・JR両毛線前橋駅より、徒歩約25分
・JR前橋駅より、バス県庁前下車、徒歩約2分
◇お問合せ前橋市役所文化財保護課  TEL:027-231-9875
・前橋市観光協会        TEL:027-224-1111

参考文献 ・現地で入手のパンフレット、及び、解説板

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