
相馬の平将門これを築くという伝説もあるが、本格的な築城は、甲斐(山梨県)武田氏の流れをくむ真里谷武田氏一族の勝(すぐろ)真勝が天文9年(1540)に久留里字安住の真勝寺を創建したのが始まりとされ、寺域東部を「上の城(うえんじょう)」と呼び、真勝の居址とされる。
その後、これを攻略した安房(千葉県)の里見氏6代義尭が天文22年(1553)頃、義尭は「上の城」の南東の丘陵を造成し、久留里城の普請を行って、本拠とした。

久留里城は築城に際し、3日に一度21回、雨が降ったと言う伝説から、「雨城」の別名があります。
里見義尭は、越後の上杉謙信たちと同盟を結び、小田原の北条氏と対立したため、北条氏の軍に再三攻撃され、永禄7年(1564)、一旦安房に撤退しますが、永禄10年(1567)里見義尭・義弘親子は佐貫城を前線基地として、北条軍と戦い勝利して、再び久留里城に入りました。
天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに遅参した里見義康が上総領を没収され、久留里には翌年、榊原康政の子大須賀忠政が3万石で入城した。
その後、慶長7年(1602)には、土屋忠直が2万石で入城、以後利直、頼直と続いたが、延宝7年(1679)8月、主君の器にないと、頼直は改易となり、翌8年に久留里城は廃城となった。
寛保2年(1742)7月、上野(群馬県)沼田の黒田直純が移封されて2万石で入城し、この際、幕府から五千両の御下賜金を得て久留里城を再興したという。久留里城は典型的な山城であり、天守台、櫓台、土塁、堀切などの遺構は黒田氏時代のものである。
戦国時代の城は、山上に本丸、二の丸、山麓に三の丸があったが、江戸時代には本丸に番所を置き、藩庁を三の丸に置き、ここで藩政をとっていた。
本丸は山頂にあり、高さ二メートルの櫓台があり、すぐそばには波多野曲輪、少し下ったところに天神曲輪があり、男女二つの井戸がある。さらに下ると、薬師曲輪をすぎて、二メートル位の土塁で四方を囲んだ二の丸があり、また尾根伝いに久留里曲輪や阿弥陀曲輪を配し、三つの堀切を設けていた。
その後は黒田氏9代目の直養(なおたか)の時、明治維新を迎え、明治5年(1872)城の建物が取り壊されましたが、昭和54年3月に天守台跡の横に久留里城天守が再建された。
三の丸から本丸への高差約100m、急勾配の道を一気に約10分登ると、山城だとの実感が味わえる広大な景色が現れます。
時間に余裕がある人は、途中からの探鳥道を歩いていくのもよいかも。
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