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小田原城絵図(文久年間) (35kB)
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小田原城絵図(文久年間) (35kB)

大手門跡と鐘楼
 江戸時代の小田原城の大手門を入ると、西側一帯は三の丸となり、道の西側に小田原藩の家老級の屋敷が並んでいました。
 それまで箱根口付近にあった大手門を、稲葉氏が城主であった寛永10年(1633)に、三代将軍徳川家光が京都に上るのに備えて、江戸に向く現在地に移し、大手門前までの道は将軍家が小田原城に入るための、御成道として整備され、東の入口であった江戸口見付も、国道一号線沿いの現在の位置に移されました。
 大手門の造りを元禄時代ごろの絵図で見ると、三の丸東堀に架かる土橋を渡ると、外からの攻撃や敵の侵入を防ぐための、馬出と呼ばれる空間があり、更に冠木門と呼ばれる門から、枡形と呼ばれる四角い空間に入ります。この枡形は、櫓門や石垣、塀で囲まれており、立派な門であったことが分かります。

 この鐘楼の鐘は現在、朝夕6時につかれ、時を知らせている。時を知らせる「時の鐘」は江戸時代の「貞享3年(1686)御引渡記録」の中に「小田原町の時の鐘は昼夜ついている」という記事があり、300年以上前からつかれていることになる。
 この鐘は、初め浜手御門(ここより約150m南)のところにあったのを、明治29年(1896)裁判所の東北隅に移され、さらに大正年間に現在の場所に移された。
 
元禄時代の大手門跡の絵図 大手門跡近くに移設された300年以上もつかれている鐘楼
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大手門跡近くに移設された
300年以上もつかれている鐘楼
鐘楼の登り口(北面)
元禄時代の大手門跡の絵図鐘楼の登り口(北面)

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