河村城址
―― 甲斐・駿河から足柄平野に至る交通の要衝に位置する城 ――
河村城址が位置する地は城山と呼ばれ、北を旧皆瀬川、南を酒匂川によって周辺山地と分断された自然の要害とも言うべき地形となっている。城山の標高は約225mで、酒匂川との比高差は約130mを測り、東へ浅間山・丸山と連なる独立丘陵状をなしている。河村城の周辺では、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交錯することから、数多くの城砦群が築かれている。 甲斐から城ヶ尾峠を越えるとと湯ノ沢城・中川城・大仏城山・新城・鐘ヶ塚砦が、駿河から箱根山地・足柄峠の尾根筋を下ると足柄城・阿弥陀尾砦・浜居場城があり、さらに足柄平野周辺部には松田城・沼田城などがあるが、なかでも河村城は甲斐・駿河から足柄平野に至る交通の要衝に位置している。
河村城の築城は古く、平安時代末期に藤原秀郷の一族波多野達義の二男河村秀高によって築かれたと伝えられている。秀高の子義秀は、源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏方に属したため領地を没収されるが、建久元年(1190)鎌倉での流鏑馬の妙技により、本領河村郷に復帰できたと『吾妻鏡』にある。 建武の中興・南北朝時代と河村氏は松田氏とともに南朝側の新田氏に協力し活躍するが、北朝側の足利尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村秀国・秀経らは新田義典・葛屋義治とともに河村城に篭城する。 正平7〜8年(1352〜53)にかけて、畠山国清を主将とする足利尊氏軍と戦火を交えるが、南原の戦いで敗れ、新田・葛屋らは中川城を経て甲州に逃れたと『太平記』にある。
南原の戦い後、河村城は畠山国清・関東管領上杉憲実を経て大森氏の持城となったと考えられ、その後相模に進出した小田原北条氏に受け継がれていく。戦国時代、小田原北条氏は武田氏との攻防から、前記の各城とともに小田原城の支城として河村城を重視し、特に元亀年間には河村城の補強を行ったことが『相州古文書』に見られる。 その後、武田氏との間で周辺の諸城とともに争奪戦を繰り返し、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で落城、廃城になったと考えられるが、これらを伝える資料は残っていない。
河村城は、急な斜面と入り組んだ谷を持つ地形を充分に生かした郭配置がなされており、大きく三つの尾根を堀切によって郭としている。本城郭を中心に、東の浅間山に連なる尾根に蔵郭・近藤郭・大庭郭・同張出部を配しており、絵図によっては張出部の南端を大手としている。 本城郭から北へ伸びる尾根には小郭・茶臼郭を配し、西へ伸びる尾根には馬出郭・西郭・北郭・同張出部を配し大久保平へと続いている。 郭の周囲には水郭・帯郭が随所に見られ、本城郭と北郭の間に馬洗い場、小郭と茶臼郭の間にお姫井戸の伝承地があり、湧水があったと伝えられる。 平成2年(1990)の本城郭及び堀切二ヶ所の試掘調査では、本城郭から柱穴と思われるビット六個が検出され、根固め用と考えられる河原石が認められた。 また、河村城東端の大庭郭張出部東側の堀切では、幅約20m・深さ約11mの箱薬研状を呈する堀であること、蔵郭と近藤郭間の堀切は、幅約30m・深さ約15mの河村城最大の規模であることが確認された。
さらに、平成4年の本城郭から茶臼郭の間の堀切二ヶ所と小郭の発掘調査では、小郭両側の堀切はいずれも畝堀の形態であり、本城郭側の堀切では八本、茶臼郭側の堀切では五本の畝が検出された。また、小郭平坦面は一辺約15mの三角形状を呈し、縁辺には地山を削り出して低い土塁が設けられており、南・北端には「つっぶて石」に利用したと考えられる拳大ほどの河原石の溜場が検出されている。 郭全体には焼土・炭化物の薄層が覆っており、焼失した可能性があるが、ビットは四個確認できただけで建物の存在を示唆するまでには至っていな。 本城郭と小郭、茶臼郭の間の畝堀は、山中城跡に負けないくらい立派です。(キレイに整備されただけかな?) しかし、一気に本丸(本城郭)まで登るのは結構きついので、みかん畑の中を登るルートのほうが楽かも。 |
| 河村城址 平成15年3月23日時点 | |
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