唐澤山城址(別名・根古屋、栃本城)
―― 関東平野を一望できる要害に築かれた山城 ――
関東七名城(佐竹城、宇都宮城、唐沢山城、金山城、前橋城、忍城、川越城)の一つに数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残しています。 代々の変遷の跡も見られ近世初期にまで下る整備の跡が、本丸跡、二の丸跡、三の丸跡、表御殿跡、南城跡、物見櫓跡、帯郭、さくらの馬場、四つ目堀、大炊井、車井戸、避来矢山、桝形、金の丸、北城跡、天狗岩として、今も当時をしのぶ遺跡として数多く残っています。 唐澤山神社の御祭神藤原秀郷公は、幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので、世に田原(俵)藤太秀郷ともいわれています。
時に公は延長5年(927)に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ、父祖伝来の此の地に参られ、唐澤山に城を築いて、善政を施していた。 たまたま、この頃、桓武天皇の流れをくむ平将門は、父の残した領地のことから叔父の国香を殺し、次第に勢力を増し、天慶2年(939)頃から関東八ヶ国(上総、常陸、上野、下野、武蔵、相模、伊豆)の国府を順次攻めたて、国府の長官を京に護送して、関東地方の大部分を支配してしまいました。 将門は、自ら親皇と称し、朝廷の命令を聞こうとせず、このように将門が地方で乱暴を働くのをみかねた朝廷では、藤原忠文に征夷大将軍の職を与え、将門征伐に出発させ、その軍が到着する前に秀郷公は平貞盛と力を合せて、将門の軍を下総国幸島において攻め滅ぼしました。
公は、この功績により押領使から下野守(栃木県の長官)になり、さらに武蔵守の役も兼任するようになり、従四位下へと進み、その手柄に対し朝廷より土地一功田が与えられ、関東はもとより奥州方面にまで威勢を張られました。 その後代々子孫が城主となり、約700年間、佐野修理太夫信吉公の代まで続き、徳川幕府の初期、山城禁止令により、現在のJR佐野市駅前の城山公園の地に城換を行なって、春日岡城と呼ばれました。これによって、唐澤山城の歴史が終わりました。 しかし、この春日岡城がまだ完成しない慶長18年(1613)大名としての佐野家は、徳川氏の政策により断絶、城主佐野信吉は信州松本城にお預けとなりましたが、二十三年の後時の三代将軍家光から赦免の恩命に浴し、信吉の二人の子供は旗本として佐野家を再興することができました。
駐車場からすぐのその昔見張り台として使用された天狗岩を登り、眼下を見下ろすと、「関八州を見渡す」は大袈裟かもしれませんが、遠くまで見渡せました。 関東7名城の一つでもあり、立派な枡形の大手門石垣や、高さ7〜8mの高石垣で囲まれた本丸など石垣好きな人にはたまらないお城です。 その他、上杉の連続竪堀、後北条氏の虎口などすばらしき遺構の宝庫にもかかわらず、なんと、なんの指定もないそうです。 |
| 唐澤山城址 平成17年11月13日時点 | |
| ◇交通 |
・東武佐野線「田沼」駅より、徒歩約60分 ・JR両毛線、東武佐野線「佐野駅」より、車で約20分 ・東北自動車道「佐野藤岡IC」より車で約25分 |
| ◇駐車場 | ・唐澤山レストハウス(城址公園入り口)に、駐車場あり |
| ◇お問合せ |
・佐野市役所 TEL:0283−24−5111(代表) ・佐野市観光協会 TEL:0283−62−9855 ・唐澤山神社 TEL:0283−24−1138 |
| 参考文献 | ・現地で入手のパンフレット、及び、解説板 ※ 唐澤山神社製の「唐澤山城跡案内図」がレストハウスにあり。(無料) |